新卒一括採用
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新卒一括採用(しんそついっかつさいよう)は、企業卒業予定の学生(新卒者)を対象に年度毎に一括して求人し、在学中に採用試験を行って内定を出し、卒業後すぐに勤務させるという世界に類を見ない日本独特の雇用慣行(日本型雇用システム[1])である。

明治期に下級ホワイトカラーの採用から始まり第二次世界大戦前ごろまでには定着しており、戦後復興期の人手不足によって大企業高卒者を大量に採用したことから確立され、21世紀現在の日本では一般的な雇用慣行である。企業では「定期採用」とも呼ばれる。合同企業説明会の様子会社説明会の様子会社説明会の様子「就職活動」も参照
歴史[ソースを編集]
ホワイトカラー[ソースを編集]
明治から第二次世界大戦まで[ソースを編集]

新規学卒者の一括採用制度が始まったのは1895年三菱(当時の日本郵船)と三井銀行からであるとされているが、一般的になるのは20世紀に入ってからである[2][3]。この当時、職員の採用は随時必要に応じておこなわれていたが、採用には試験や学歴よりも関係者の紹介が重視されており縁故採用が多かった[4]

1914年から第一次世界大戦が始まり日本は大戦景気に沸いたが、それによる人手不足から来る就職売り手市場によって学校卒業前に入社選考と採用を行う慣行が始まった[5]。卒業前の採用慣行は第一次世界大戦後も続けられた。

1927年には昭和金融恐慌と、それに続く世界恐慌から学生の就職難が社会問題となった(当時の映画「大学は出たけれど」も参照)。このような恐慌下で、1928年に三井三菱などの大手銀行を中心とする頭取重役の集まりである常盤会の意向により、大学および文部省に働きかけが行なわれ、翌年1929年の学生の定期採用は卒業後に行なうこととする協定が結ばれた[6][7]。就職協定の原型である。

にもかかわらず、優秀な学生を確保したい企業による、学生の就職難への不安につけこんだ早期の選考は、この協定後も改まらなかった。その後、景気が回復しても企業・学生双方による協定破りは続いた。

1935年6月、三菱の提案で協定は正式に破棄されることとなった[8]。なお、今日まで使われる「内定」という言葉は、この協定によって使われるようになったのだと言われている[9]。つまりは、協定によって「採用決定」が卒業後ということに決められたため、在学中の事実上の採用決定を「内定」と呼ぶことになったのである。

その後第二次世界大戦に入り、戦時統制のなかで1938年の学校卒業者使用制限令により、大学の工学部と理工学部、工業専門学校、工業実業学校の学生の就職は国家によって統制されることとなった[10]
戦後から現在[ソースを編集]

第二次世界大戦終戦後も、大卒者の新卒一括採用の慣習は続いた。終戦直後の卒業生の就職は厳しかったようだが、翌年以降はそれほどでもなかったようである。敗戦という政治経済状況に極限の変化を迫られる状況下においても、「卒業前の定期採用という慣行は、会社と大学にとってもはや変更不可能なまでに根づいていた[11]」のである。続いて起きた戦後復興1950年に起きた朝鮮戦争は、日本国内に莫大な特需を生み出し、人手を必要とした企業は多くの新卒者を雇用した[12]

採用の早期化傾向に懸念を抱いた文部省は1953年6月に教育財界関係者を集め懇談会を開き、「採用試験は10月中旬から1か月くらいとすること」を決定した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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