雑誌については「新劇 (雑誌)」をご覧ください。
新劇(しんげき)とは、『非商業的方向の中で、創作劇か翻訳劇かを問わず、劇という芸術形式に対する持続的な革新を目指す』(大笹吉雄)演劇または、演劇運動のことを示す。[1]
旧劇(歌舞伎を指す)、新派(書生芝居の流れ)に対する言葉。当初翻訳劇を中心に始まり、歌舞伎や新派の商業主義を批判し、芸術志向的な演劇を目指した。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 舞台芸術 新劇の起こりは明治時代末期、坪内逍遥の文芸協会と離脱した島村抱月と松井須磨子の芸術座、また小山内薫・市川左團次 (2代目)の自由劇場などの活動に求められる。新劇運動が確立したのは、関東大震災後の1924年に設立された築地小劇場の活動による。これは小山内、土方与志が中心となった。築地小劇場は奇跡の産物である。もし、あの時、土方が帰国を決意しなかったら、今日の文学座、俳優座、劇団民藝もなかった。であれば、1960年代後半の小劇場運動(小劇場演劇)もありえたかどうか。いや仮定の話はさておき、現在の日本演劇を用意したのは、やはり築地小劇場だろう。 ? 村井健[2]当時の築地小劇場築地小劇場跡の碑 (碑文は里見クによるもの) 小山内の死後、築地小劇場(附帯の劇団)は劇団築地小劇場と新築地劇団の二つに分裂。並行して1929年ごろから佐々木孝丸、村山知義、佐野碩らによる全国組織日本プロレタリア劇場同盟(後の日本プロレタリア劇場同盟(プロット))が結成されたが、1934年、国家の弾圧によりプロットは解体。数年前に施行した治安維持法により、佐々木、村山をはじめとする多くの劇団の俳優、演出家、作家は投獄、監禁され、台本の検閲による表現の制限、劇団はつぎつぎと強制解散を余儀なくされた。 築地小劇場に続く劇団として文学座(1937年)や俳優座(1944年)結成。 1945年12月26日、太平洋戦争の終結後の初の公演で、有楽座で全新劇人を集めた合同公演で『桜の園』(毎日新聞社主催)が演じられた[3]。 劇団民藝(1950年)も正規に結成。1954年、築地小劇場の理念を受け継ぐ新劇の劇場として六本木に俳優座劇場が俳優座の劇団員たちの手によって創立された。
解説
1989年(昭和64年/平成元年)、国立劇場法の一部改正が行われた。文部省(文化庁)所管の国立劇場(現:日本芸術文化振興会)に現代舞台芸術に関する業務が追加され、第二国立劇場(現:新国立劇場)の設置者に決定する。