新党改革
[Wikipedia|▼Menu]

日本政党新党改革
New Renaissance Party
成立年月日2008年8月28日[1]
前身政党民主党(一部)
自由民主党(一部)
解散年月日2016年7月25日[2](法規上は同年12月31日[3]
解散理由国会における全議席喪失
後継政党自由民主党(事実上)
本部所在地〒102-0093東京都港区赤坂2-8-15 オリエントニュー赤坂202
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分46.4秒 東経139度44分33.3秒 / 北緯35.679556度 東経139.742583度 / 35.679556; 139.742583
政治的思想・立場小さな政府[4]
地方分権[4]
脱原発[5]
保守主義[6]
医療大麻研究推進[7]
シンボル黄色地から右上に伸びる青いライン
法人番号6010405008961
2010年4月23日に改革クラブから党名変更
テンプレートを表示

新党改革(しんとうかいかく、英語: New Renaissance Party[8])は、かつて存在した日本政党。略称は改革、NRP。1字表記の際は、改と表記される。2010年4月23日までの党名は改革クラブ(かいかくクラブ、英語: Japan Renaissance Party)[9]
概要

2008年(平成20年)8月に、民主党執行部の党運営に反発する渡辺秀央らと自民党への復帰を望む荒井広幸らにより「改革クラブ」として結成される[1]。結党の翌月から政党助成法上の要件を満たす政党であったが、2009年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙後の一時期、国会議員が定数を満たさず、政治団体に転落していたことがあった。なお、1998年から2000年まで国会に議席を有していた改革クラブとは構成メンバー・政策などいずれの面からも無関係である。

2010年4月23日、自民党を離党した舛添要一を新代表として政党名を「新党改革」に変更し[10]、自民党との統一会派「自由民主党・改革クラブ」を解消。舛添以外に第22回参議院議員通常選挙で自民党の公認を得られなかった矢野哲朗小池正勝が入党したが、改革クラブ結党時のメンバーであった大江康弘と唯一の衆議院議員であった中村喜四郎との2名が舛添への反発から離党した。大江はその後幸福実現党を経て自民党に入党、中村は引き続き自民党との統一会派で活動した。

2010年の第22回参議院議員通常選挙において比例区での得票率が2.0%を超えたため、2016年まで政党助成法上の政党要件を満たしていた。

2016年第24回参議院議員通常選挙において東京都選挙区に公認候補1名を擁立し、また比例区で9名が立候補したものの、代表の荒井広幸も含め全員が落選し国会での議席を失うこととなった。比例区での得票率も2.0%を下回ったため、新党改革は荒井の任期満了を待たず2016年7月10日付けで政党要件を失った[11]。25日、解散式を行なった[12]
党史
改革クラブの結成

民主党参議院議員の渡辺は、自由党に所属し、小沢一郎の側近として民由合併を積極的に進めたが、2004年(平成16年)の第20回参院選に出馬した際、小沢の支援を得ることができず、渡辺を師と仰ぐ大江康弘とともに小沢と距離を置くようになった。

郵政民営化をめぐり自民党を離党し新党日本結成に参画した荒井は、党代表である田中康夫の党運営に反発して離党、自民党と統一会派を結成したが与党が参院において少数派であったことから影響力を発揮することができなかった。

そのような状況で民主党離党を決意した渡辺・大江は、荒井と同じく参院で孤立していた無所属の松下新平と新党結成を画策した。当初はこの4人に加えて民主党の姫井由美子も参加する予定であったが、前日の8月28日に新党立ち上げが明るみに出ると、姫井は民主党執行部の説得を受けて翻意、記者会見直前で参加を取りやめた。また渡辺が強い影響力を持っていた新潟県でも菊田真紀子ら民主党国会議員の追随はなく、逆に渡辺の影響力低下を示す結果となった。

そのため、発足当初は政党交付金の受給資格である「国会議員数が5人以上」をクリアできず、政党助成法上の政党に該当しない政治団体として扱われていたが、9月24日に衆議院議員で無所属の西村眞悟が加わったことにより政党助成法上の政党要件を満たし、同日付で政党としての届けを総務省に提出し受理された。

結党2日後の9月1日に福田康夫内閣総理大臣が辞意を表明し、次期自民党総裁の選出と衆議院解散総選挙の日程が政治の焦点となった。さらに9月半ばから世界的な金融危機が勃発したため、改革クラブへの社会的関心は急速に薄れることとなった。
渡辺秀央代表時代

2008年9月24日に召集された第170臨時国会の冒頭に行われた内閣総理大臣指名選挙では、参議院において改革クラブの4人は1回目、決選投票の双方とも自民党総裁、麻生太郎に投票した。一方、衆議院で唯一の所属議員である西村眞悟は麻生でなく平沼赳夫に投票した(1回目で麻生が過半数の票を獲得したことに伴い決選投票は行われず)。

12月16日、首相官邸の麻生太郎内閣総理大臣に、「五項目の要望書」(事業規模23兆円の追加経済対策の成果を確実にあげる・世界的な金融危機突破のために躊躇せず財政出動を行う・拉致問題解決に全力を尽くす・その他)を提出した。

第170回国会にて、12月24日に「クラスター爆弾禁止条約の批准を国会承認しないことに関する請願」を、翌2009年2月25日に「パチンコ店における出玉の換金行為を取り締まり、完全に違法化することに関する請願」・「憲法第九条第二項のみを改正し、自衛権及び自衛隊の存在を明記することに関する請願」を衆議院に提出。また7月には第171回国会に「政府広報テレビの開設を求めることに関する請願」を衆議院に提出した。

第45回衆議院議員総選挙には自公政権の“与党”(閣外協力)として参加しており、「麻生内閣の継続」を明確に訴えた。選挙では西村のみが大阪府第17区から比例近畿ブロックとの重複で立候補したが落選した。西村の落選で現職国会議員が結成メンバー4人に戻り、再び政党要件を喪失した。

9月11日、参議院で自民党と統一会派「自由民主党・改革クラブ」を結成した。

第172特別国会では、自民党が首班指名選挙で麻生総裁の辞任で空席となっていた総裁の代役として若林正俊・自民党両院議員総会長に投票した際に改革クラブも自民党に同調し、若林に投票した[13]

10月16日、無所属で政治活動を続けていた中村喜四郎が入党し、政党要件を回復[14]。10月19日には、衆議院でも自民党と統一院内会派を組むことで合意した[14][15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:62 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef