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凡例新井 白石
時代江戸時代中期
生誕明暦3年2月10日[1](1657年3月24日)
死没享保10年5月19日(1725年6月29日)
改名伝蔵(幼名)→君美
別名仮名:与五郎、勘解由
号:白石、紫陽、天爵堂、忽斎、在中、済美
渾名:火の子、鬼
戒名慈清院殿釈浄覚大居士
墓所報恩寺(東京都台東区)
高徳寺(東京都中野区)
官位従五位下 筑後守、贈正四位
幕府江戸幕府本丸寄合
主君土屋利直→堀田正俊→堀田正仲→徳川家宣→徳川家継
藩久留里藩士、古河藩士、甲府藩士
氏族新井氏
父母父:新井正済
新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家[3]・朱子学者。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学
一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
生涯
生い立ち新井白石久留里城址資料館前(二の丸)に立つ新井白石像(2012年撮影)
白石は明暦の大火の翌月の明暦3年2月10日(1657年3月24日)、江戸柳原の避難先で生まれた[2]。先祖は上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉の小田原征伐によって没落したといわれている[注釈 1]。のちに父・正済は上総久留里藩に仕官し、目付をつとめている。
幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。