新井 宏昌広島一軍打撃コーチ時代
(2014年7月27日 マツダスタジアム)
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府大阪市東成区
生年月日 (1952-04-26) 1952年4月26日(72歳)
身長
体重175 cm
66 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション外野手、一塁手
プロ入り1974年 ドラフト2位
初出場1975年7月25日
最終出場1992年10月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
PL学園高等学校
法政大学
南海ホークス (1975 - 1985)
近鉄バファローズ (1986 - 1992)
監督・コーチ歴
オリックス・ブルーウェーブ (1994 - 2001)
福岡ダイエーホークス (2003 - 2004)
オリックス・バファローズ (2005 - 2006)
福岡ソフトバンクホークス (2007 - 2008)
オリックス・バファローズ (2010 - 2012)
広島東洋カープ (2013 - 2015)
福岡ソフトバンクホークス (2019 - 2020)
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新井 宏昌(あらい ひろまさ、1952年4月26日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手、一塁手)、プロ野球コーチ・監督、日本プロ野球名球会会員、野球解説者。大阪府大阪市東成区出身。 現役時代は南海ホークスや近鉄バファローズで活躍。巧みなバットコントロールによる状況に応じたシュアなバッティングが特徴で、2000安打に加え300犠打をマークするなどチームプレーにおいて欠かせない存在感を示し、65本の三塁打と165盗塁を記録した俊足でもあった[注釈 1]。1992年に40歳で現役を引退してからは、野球解説者・野球評論家としての活動をはさみながら、複数の球団でコーチや二軍監督を務めている。 長女は2011年度ミス日本でミス着物に選ばれた新井寿枝(画家・ファッションモデル)[1]、三女は2012年度ミス日本グランプリの新井貴子(名前の読みは『きこ』、モデル、アルティメット選手)[2] である。 2022年1月、三女の貴子がラグビー選手の稲垣啓太と結婚した。 中学2年の頃、甲子園出場、東京六大学進学の目標を抱きPL学園高校に入学。野球部主将となり、中堅手、三番打者として活躍する。1970年夏の甲子園府予選決勝で、才田修、神垣雅行を打の主軸とする北陽高に大勝し、第52回全国高等学校野球選手権大会に出場。新美敏、田代克業(中大?本田技研)両投手の好投もあり、PLにとって春夏通じて初の甲子園決勝に進出する。決勝は東海大相模高との乱打戦となり、6-10で敗退し準優勝にとどまった[3]。大会第5号本塁打を放ち、一大会12安打の大会記録(当時)も樹立している。同年秋の岩手国体では、決勝で大分商を降し優勝。他のチームメートに1年下の行澤久隆がいた。卒業後は早稲田大学進学を目指していたが、当時の早稲田は推薦制度がなく断念。プロ野球ドラフト会議では近鉄バファローズから9位指名を受けたが、「スカウトマンが挨拶に来た記憶が全くない」という状況でプロ入りを見送り、スポーツ推薦で法政大学経営学部に進学した。 東京六大学野球リーグでは在学中2度の優勝を経験、2年生からレギュラーとなる。2年上に長崎慶一、伊達泰司がおり、彼等の卒業後には外野手の中心として活躍。最上級生となった1974年に、1年生エース江川卓を擁し、秋季リーグで3年ぶりに優勝。同年の第5回明治神宮野球大会では決勝で中大の田村政雄に完封を喫し準優勝にとどまる。ベストナイン(外野手)受賞1回。1974年の第3回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。リーグ通算290打数79安打、打率.272、8本塁打を記録。大学同期に捕手の高浦美佐緒、内野手の道吉哲夫(三協精機)らがいる。 当初は小柄で線も細くプロ野球各球団のスカウトにマークされる選手ではなく、卒業後は1年先輩の山本功児が進んだ本田技研鈴鹿に行く予定であったが、当時南海の選手兼任監督であった野村克也が日米大学野球の新井のプレーに目が留まり、ドラフト前のスカウト会議「新井という選手は際どいボールをしれっと見逃す。見逃し方に雰囲気がある。」、「そして日米大学野球で対戦する外国人投手に対して、バタバタしてないところがええ」と語り、スカウトにとっては意外な名前だったようで「足は遅いけど、肩はいい」としか言えなかったと聞いたと新井は述べている[4]。1974年のドラフトで南海ホークスから2位指名を受け入団した。契約金は1500万、月給が17万だったから年俸は200万、背番号は「6」[4]。兄が「ここまで2番目が多かった野球人生だ。PL学園でも準優勝。ドラフトでも2位指名。兄としては1番になってほしい。改名してはどうだ。」と言われ、「鐘律(かねのり)」から「宏昌」に改名した[4]。 1975年は、7月から一番打者として起用され45試合に先発出場。 1976年には開幕から二番打者、中堅手として起用され、規定打席(15位、打率.271)にも到達した。外野守備にも優れ、同年は10補殺を記録している。 1979年に法政時代に入団時からお世話になった若生正廣が当時用具メーカーの美津和タイガーの社員で担当している大洋の選手が短いバットを使っている話から「それなら今のバットのグリップを半分に削ったらいい」と提案された[5]。工場で33インチのバットを作ってみると同じバットなので違和感ないし先に重みのあるバットになったことで外野の間を抜くような強い打球が打てるようになった[5]。バットでこれだけ変わるのかというのは発見だった。打率.358で加藤英司に次ぐパシフィック・リーグ打率2位を記録、ベストナインに初めて選出される。
概要
経歴
プロ入り前
現役時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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