凡例斯波 義銀 / 津川 義近
『斯波義近(義銀)肖像』(妙心寺大龍院所蔵)
時代戦国時代中期 - 安土桃山時代
生誕天文9年(1540年)
死没慶長5年8月16日(1600年9月23日)
改名斯波岩竜丸(幼名)→義親→義銀→津川義近→三松軒(号)
戒名衛陽院殿道蘊?山
官位従五位下、治部大輔、左兵衛佐、従四位下、侍従
幕府室町幕府尾張国守護職
主君足利義輝→義昭→織田信長→豊臣秀吉
氏族清和源氏足利氏流斯波氏→津川氏[注釈 1]
父母父:斯波義統
兄弟義銀、毛利秀頼?、蜂屋謙入?、津川義冬
子義康(大蔵?)、津川近利、津川辰珍、津川近治、女子(織田信重妻)、斯波義忠(津田正勝)、津田正俊(※一説による[注釈 2])
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斯波 義銀(しば よしかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。本姓は源氏。斯波氏(武衛家)15代(最後)当主[注釈 3]。尾張守護・斯波義統の嫡男。祖父・義達の猶子または養子となって家督を継いだ[注釈 4]とする説もある[1]。弟に毛利秀頼(異説あり)、蜂屋謙入(異説あり)、津川義冬。幼名は岩竜丸。
織田信長に服属後は、尾張守護であった斯波氏を称することを憚り、津川 義近(つがわ よしちか)と改めた(実弟の津川義冬も同様)[注釈 1]。入道して三松軒[注釈 5]と号した。斯波義康(長男、大蔵)、津川近利(次男)、津川辰珍(三男)、津川近治(四男、別名:親行)、女子(長女、信長の甥である織田信重妻)など4男2女がいる。 尾張守護。斯波氏の宗家の当主は代々左兵衛督または左兵衛佐に任ぜられ、そのため兵衛府の唐名である武衛家と称されており、義銀は義統が守護に在職している時期は若武衛、義統死後は武衛と称された。 父の義統は、尾張守護ではあったが実権がなく、尾張下四郡を支配する守護代・織田信友(彦五郎達勝)の傀儡となっていたが、天文23年(1554年)に義銀が手勢を率いて川狩りに出かけている隙を衝かれて、信友とその家臣で尾張小守護代の坂井大膳によって殺害されてしまった。これを知った義銀は、斯波氏と良好な関係を維持していた織田信長の元へ落ち延び、信長に信友を討たせた。以後、義銀は信長の庇護下に入る。 やがて義銀は、信長によって形式的な尾張国守護に奉じられ、三河国の吉良氏・駿河国の今川氏など、足利氏一門の守護同士の盟約を図ることとなった。この同盟の締結時に、義銀は石橋忠義 しかし、当初は吉良氏と席次を争っていた義銀も、斯波氏の権勢を取り戻そうと吉良氏と結んで信長の追放を画策するようになった。義銀は足利御一門の石橋忠義、吉良義昭、今川義元、尾張の河内地方(海西郡)の国人・服部友貞と通じ、今川の軍勢を海上から引き入れようとしたのである。 しかし、この密議は信長に知られるところとなり、義銀は尾張を追放され[3]、大名としての斯波武衛家は滅びた。のちに上洛した信長により、将軍・足利義輝によって使用されていた武衛家の京屋敷である武衛陣は、改めて将軍・足利義昭の居城・二条御所として利用された。 その後は同じ三職家(三管領家)の一つであった河内国の畠山高政の庇護の下に入り、一説にはそこでキリシタンになったとも言われるが、恐らくこれは同じく尾張を追放され松永久秀の庇護下に入ってキリスト教に入信した石橋忠義(洗礼名サンチョ)の経歴と混同したものと思われる。のちに信長と和解し、その際に名を津川義近と改めた[注釈 7]。
出自
生涯
尾張守護斯波義銀肖像(『義烈百人一首』より )
追放
後半生