斯波義淳
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 凡例斯波 義淳
時代室町時代中期
生誕応永4年(1397年
死没永享5年12月1日1434年1月11日
別名勘解由小路武衛(通称)
戒名心照寺殿道忠淑良
官位従五位下治部大輔従四位下左兵衛佐
左兵衛督[1]正三位[2]
幕府室町幕府管領越前尾張遠江守護
主君足利義持義量義教
氏族斯波氏
父母父:斯波義重
兄弟義淳、義郷持有
義豊
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斯波 義淳(しば よしあつ)は、室町時代中期の武将守護大名室町幕府9代、13代管領。越前尾張遠江守護。斯波氏(武衛家)7代当主。管領斯波義重の嫡男で、室町幕府前期の有力者斯波義将の孫に当たる。
生涯
第一次管領就任

応永4年(1397年)、斯波義重の嫡男として生まれる。母は不明。なお、弟の義郷・持有は、父の側室である甲斐氏の産んだ異母弟。

応永14年(1407年)11月19日、11歳の時に北山殿において武衛家の慣例[3]により公家の儀式に准じて元服[4]。この際に将軍義持の偏諱[5]を受けて「義淳」を名乗り、従五位下治部大輔に任官する。応永16年(1409年)8月、13歳という年少の身であるにもかかわらずに管領に任じられた[注釈 1]。これは当時幕閣第一の実力者であった祖父義将(道将)の意向があったと思われる。実際に管領在職中には三条坊門御所への移転などを差配しているが、その実権は祖父にあり、将軍家御教書の署名も父の義重が花押している[8][注釈 2]

やがて翌応永17年(1410年5月7日に祖父が死去すると翌6月には管領職を解かれている。
武衛家当主として

応永25年(1418年)8月に父が死去したため、その後を襲って越前・尾張・遠江の守護に任ぜられ、左兵衛佐に官を進めた。以後は武衛家当主としての活動が始まり、応永27年(1420年)5月から6月にかけては当時滞京中であった朝鮮使節の宋希mの応接[9]を義持より命じられ、応永28年(1421年)4月に行われた国母日野西資子(光範門院)の熊野参詣では伏見稲荷においてこれを接待し[10]、同年12月には将軍義持より命じられ田楽を沙汰するなどの動向が見られる(『看聞日記』)。

応永32年(1425年)2月に将軍義量が没すると、伏見宮貞成親王の『看聞日記』ではそれに前後して将軍家断絶を仄めかす怪異が続いたとされる。その中には武衛邸に「将軍」の銘が刻まれた兜が天から降り、義淳が将軍家を継承すると噂されたものもあったという[11]

義量の没後、しばらくは前将軍の義持が政務を執り行っていたが、応永35年(1428年)1月7日、俄に発病した義持は日々病状を悪化させ、毎年の恒例であった同月12日に行われる武衛邸渡御も中止となるほどであった。同月17日には危篤状態となり、義淳をはじめとして管領畠山満家ら主だった幕閣たちは、室町殿の護持僧として信任の厚かった満済のもとへ集結して後継者について協議し、ついには義持の弟達(青蓮院門跡義円梶井門跡義承大覚寺門跡義昭相国寺虎山永隆)の中から籤引きによって後継者を選定する事を決した。結局、義持は明朝には死去したため、19日に石清水八幡宮にて籤引きを行った結果、青蓮院門跡であった義円が将軍家の後継者となり、還俗および元服して足利義宣、さらに義教と名を改め、室町幕府第6代将軍に就任した(実際に就任したのは正長2年)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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