斡本(オベン、? - 皇統元年5月12日(1141年6月17日))は、金の皇族。漢名は宗幹。太祖阿骨打の庶長子。母は側室の裴満氏(追尊光懿皇后
)。爵位は遼王で、忠烈と諡された。天会13年(1135年)に叔父の太宗が崩御すると、族兄の晋王粘没喝(宗翰)と共に甥(太祖の孫)で養子でもある合剌(熙宗)を擁立して、太宗の子の蒲魯虎(宗磐)と族父の撻懶
(ダラン、太祖の季父の穆宗盈歌の子)と対立した。やがて蒲魯虎・撻懶が失脚すると、次の標的を、皇族の実力者である粘没喝に移す。斡本は熙宗に上奏して、粘没喝を太保領三省事という皇帝側近の名誉職に就任させて、大同を基盤としていた粘没喝の軍事権を奪った。粘没喝は次第に憔悴し、天会15年(1137年)に不遇のまま59歳で病没した。蒲魯虎・撻懶が再び権力を奪回すると、斡本は今度はこの両者と組んで、金の傀儡属国である斉帝・劉豫を蜀王に降格して、内蒙古にある臨?府に強制的に移住させた。以降も斡本は権力を握り、異母弟の梁王斡啜(兀朮・宗弼)と組んで、蒲魯虎・撻懶と再び対立した。天眷2年(1139年)4月、蒲魯虎と撻懶が劉豫の斉国廃止後、服従を条件に陝西と河南を南宋に割譲したのを、南宋に通じたと誣告、2人を謀反の罪で処刑することに成功した。ただし、撻懶の異母弟の烏野は斡本に属しており、兄と対立していたために連座はされなかった。
こうして、肩の荷を降ろした斡本は、皇統元年(1141年)に病没した。熙宗は、この養父の逝去を大いに悲しみ慟哭したという。
のちに、次男の迪古乃(海陵王)が従兄の熙宗を惨殺して即位すると、亡父に対して、徳宗の廟号と憲古弘道文昭武烈章孝睿明皇帝の諡号を贈った。しかし、海陵王が廃位されて世宗の代になると、暴君の父ということで廟号が削除され、帝号を明粛皇帝とされた。後に帝号も削除されて皇伯・太師・梁宋王に降格された。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。金史/巻七 列傳第十四 太宗諸子 杲 宗幹
宗室
妻妾
妻・徒単氏(皇太后。海陵王により誅殺)
妾・大氏(慈憲皇后。海陵王の母)
妾・蕭氏(寧妃)
妾・李金哥(次婦、順妃。兀惹の人。代王の母)
妾・徒単氏(文妃)
妾・陸正姑(北宋の儀王趙朴の元婚約者)
子女
男子:代王神土懣(充、李氏の子、徒単氏の養子)、海陵煬王迪古乃(亮、大氏の子)、梧桐(?、大氏の子)、衛王永慶(襄、大氏の子)、蒲甲(袞)
女子:遼国公主(迪鉢)、ケ国公主(崔哥)、平陽公主(大氏の娘)、嘉祥公主
更新日時:2019年3月14日(木)08:52
取得日時:2019/11/21 22:36