斜里郡
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北海道斜里郡の位置(1.斜里町 2.清里町 3.小清水町)

斜里郡(しゃりぐん)は、北海道北見国オホーツク総合振興局

人口18,667人、面積1,426.78km²、人口密度13.1人/km²。(2024年4月30日、住民基本台帳人口)

以下の3町を含む。

斜里町(しゃりちょう)

清里町(きよさとちょう)

小清水町(こしみずちょう)

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足して以来、郡域は上記3町のまま変更されていない。
歴史
郡発足までの沿革

江戸時代の斜里郡域は西蝦夷地に属し、当初は松前藩によって開かれたソウヤ場所に含まれたが寛政2年以降は新たにシャリ場所が設けられていた。寛政8年8月21日には斜里神社が創建されている。享和元年八王子千人同心千人頭原胤敦によって釧路国川上郡虹別(現標茶町)から摩周湖の東を通り斜里郡トンダベックシを結ぶ斜里山道が開削された。

江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え、文化4年斜里郡域は天領とされ津軽藩が出張陣屋を築き警固をおこなった。この時、シャリで越冬時に多数犠牲者を出した津軽藩士殉難事件がおこっている。また、文化年間にそれまで蝦夷の人々が利用していた根室国標津郡のチライワツタリから根北国境を越え斜里郡に入りワツカオイに至る8里32町(34.9km)、ワツカオイから斜里に至る10里30町(42.5km)など3区間にわたる道を斜里場所の蝦夷も請負い改修した、斜里越も開削されている。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり今度は会津藩が斜里に出張陣屋を築き警固をおこなった。安政3 - 4年ころ知床半島にある硫黄山噴火している。安政6年以降、6藩分領にともない会津藩領となっていた。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して斜里郡が置かれた。
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の斜里郡の町村(1.斜里村 青:合併を経ていない町村 水色:分立して現存する町村 21.上斜里村 22.小清水村)

明治2年

8月15日1869年9月20日) - 北海道国郡里制が施行され、北見国および斜里郡が設置される。開拓使が管轄。

8月29日(1869年10月4日) - 名古屋藩の領地となる(北海道の分領支配)。


明治3年6月19日1870年7月17日) - 再び開拓使の管轄となる。

明治5年

4月9日1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。

10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。


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