斎藤隆夫
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その他の同名の人物については「斎藤隆夫 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

斎藤孝雄」、「齋藤太朗」、「斎藤貴男」、あるいは「斉藤隆夫」とは別人です。

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斎藤隆夫(1920年)
生年月日1870年9月13日
出生地 日本但馬国出石郡(現:兵庫県豊岡市
没年月日 (1949-10-07) 1949年10月7日(79歳没)
死没地東京都文京区
出身校旧制東京専門学校
(現:早稲田大学
イェール大学法科大学院留学
所属政党(立憲国民党→)
立憲同志会→)
憲政会→)
立憲民政党→)
(無所属→)
日本進歩党→)
民主党→)
(無所属/民主クラブ→)
民主自由党
国務大臣無任所大臣→国務大臣行政調査部総裁
内閣第1次吉田内閣
在任期間1946年5月22日 - 1947年5月24日
国務大臣行政調査部総裁
内閣片山内閣
在任期間1947年6月1日 - 1948年3月10日
衆議院議員
選挙区兵庫県第5区
当選回数13回
在任期間1912年5月17日 - 1940年3月7日[注釈 1]
1942年5月1日 - 1949年10月7日
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斎藤 隆夫(さいとう たかお、旧字体:齋藤󠄁 隆󠄁夫、1870年9月13日明治3年8月18日〉 - 1949年昭和24年〉10月7日)は、日本弁護士政治家である。

帝国議会衆議院において、立憲主義議会政治自由主義を擁護し、弁舌により軍部の政治介入に抵抗した。
来歴・人物

但馬国出石郡、現在の兵庫県豊岡市出石町中村に斎藤八郎右衛門の次男として生まれる。8歳になり福住小学校に入学したが、12歳の頃「なんとしても勉強したい」という一念から京都の学校で学ぶことになった。ところが彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきた。その後、農作業を手伝った。

21歳の冬に、東京まで徒歩で移動する[1]。上京後は後に徳島県知事である桜井勉書生となる。桜井の退官後は桜井からの紹介で同郷但馬の朝来郡出身で大物財界人の原六郎の支援を受ける。1891年(明治24年)9月に東京専門学校(現・早稲田大学)行政科に入学、1894年(明治27年)7月に同校同学科を首席で卒業[2]。同年判事検事登用試験(現・司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。その後、アメリカのイェール大学法科大学院に留学し公法政治学などを学ぶ(イェール大学の同窓生という意味では原と斎藤は先輩後輩の間柄になる)。

帰国後の1912年(明治45年・大正元年)養父郡選出の衆議院議員佐藤文兵衛の後継として原の旧知であった斎藤に白羽の矢が立ち立憲国民党より総選挙に出馬、初当選を果たす。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党立憲同志会憲政会立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、濱口内閣では内務政務次官第2次若槻内閣では法制局長官を歴任している。

腹切り問答を行った浜田国松人民戦線事件で検挙される加藤勘十とともに反ファシズムの書籍を出したり卓越した弁舌・演説力を武器にたびたび帝国議会で演説を行って満州事変後の軍部の政治介入、軍部におもねる政治家を徹底批判するなど立憲政治家として軍部に抵抗した。

1932年(昭和7年)3月22日(第61回帝国議会)、野党民政党の代表として演壇に立ち、桜田門事件の責任を取って犬養内閣が総辞職しないのはおかしいと主張した。このときの模様については、フランスから来た女性ジャーナリスト、アンドレ・ヴィオリスの『1932年の大日本帝国』で描写されている[3]

1935年(昭和10年)1月24日、「岡田内閣施政方針演説に対する質問演説」で「陸軍パンフレット[4]と軍事費偏重を批判。

1936年(昭和11年)5月7日(第69特別帝国議会)、「粛軍演説」(「粛軍に関する質問演説」)を行った。

国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日(第73帝国議会)、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。

1940年(昭和15年)2月2日(第75帝国議会)、「反軍演説」(「支那事変処理中心とした質問演説」)を行った。

反軍演説が軍部、及び軍部との連携・親軍部志向に傾斜していた議会内の諸党派勢力(政友会革新派中島派)、社会大衆党、時局同志会など)より反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名された。


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