斎藤達雄_(俳優)
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さいとう たつお
斎藤 達雄
宗方姉妹』(1950年)
生年月日 (1902-06-10) 1902年6月10日
没年月日 (1968-03-02) 1968年3月2日(65歳没)
出生地 日本東京府東京市深川区佐賀町
(現在の東京都江東区佐賀
死没地 日本東京都世田谷区梅ヶ丘
職業俳優映画監督
ジャンル演劇劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー)、テレビ映画
活動期間1923年 - 1967年
主な作品
会社員生活』 / 『突貫小僧
足に触つた幸運』 / 『東京の合唱
大人の見る繪本 生れてはみたけれど
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斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 1968年3月2日)は、日本俳優映画監督

松竹蒲田撮影所に入り、独特の存在感を持つ飄々とした演技で、脇役や短篇喜劇映画の主役として多くの作品に出演した。初期の小津安二郎監督作品に欠かせない俳優でもあり、『肉体美』『会社員生活』『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』などの小津作品に主演した。戦後も貴重な脇役として活躍し、監督作も発表している。
来歴・人物

1902年(明治35年)6月10日東京府東京市深川区佐賀町(現在の東京都江東区佐賀)に生まれる。父は米の仲売人で日本橋区に店を構えていた[1]。父は芝居道楽で、家業そっちのけに一座の勧進元になって巡業に出たりして財産を蕩尽し、5歳の時に佐賀町の家をたたんで神田明神近くへ引越しする始末だった[1]。引っ越した家の隣には後にカメラマンとなる長井信一が住んでおり、幼い頃に幻灯機を作ってもらったという[1]

地元の小学校を卒業後、京華中学校(現在の京華中学高等学校)に入学。父が浅草のルナパークの株主だった関係で映画館には無料入場できたことから映画ファンとなる[1]ブルーバード映画のスター女優だったエラ・ホールに夢中となり、彼女にファンレターを送ると返事が返って来て有頂天になったり、映画雑誌『活動之世界』などに投稿したりした[2]。学業そっちのけで映画に夢中になっていたため、それを心配した父によってシンガポールでカメラ材料店を開く人に預けられ、京華中学を中退してシンガポールに渡る[2]。マレー商業学校を卒業後、外国商館に勤務する傍ら、コンナム・フィルム社の『ステマドル』という映画に出演し、1922年(大正11年)に日本へ戻る[2]

1923年(大正12年)、松竹蒲田撮影所に入社。牛原虚彦監督の『狼の群』で映画デビューし、その後島津保次郎監督の『人肉の市』、大久保忠素監督の『天を仰いで』などに出演するが、同年8月に退社して日活大将軍撮影所に入社する[2]。若手助演者として注目され始め、『小品映画集 《人生と活動》』では主役に起用される。1926年(大正15年)、松竹蒲田に再入社。長身痩躯で混血児風の容貌と飄々とした持ち味を買われて、特異なバイプレーヤーとして注目されるようになり、牛原監督の『感激時代』『陸の王者』などに出演する一方、城戸四郎撮影所長が奨励する短篇喜劇に次々と起用されて持ち味を発揮していく[2]足に触つた幸運』(1930年)のスチル写真。左から月田一郎、斎藤、関時男。

1928年(昭和3年)、小津安二郎監督の第2作『若人の夢』で主役の学生役に起用され、以後、小津の短篇喜劇に次々と主演する。やがて小津の小市民映画の主人公として不況時代のサラリーマンなどを演じ、飯田蝶子坂本武らとともにサイレント時代の小津映画に欠かせない存在となる。斎藤が主演した小津の短篇喜劇に『女房紛失』『カボチヤ』『肉体美』『会社員生活』『突貫小僧』『落第はしたけれど』『エロ神の怨霊』があり、『肉体美』では妻の尻に敷かれている亭主、『会社員生活』ではボーナスの支給日に会社をクビになるサラリーマン、『突貫小僧』ではさらった子供に手を焼く人さらい、といった役を演じてユーモラスな演技を見せる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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