斎藤義龍
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 凡例斎藤 義龍 / 斎藤 高政
斎藤義龍像(常在寺蔵)
時代戦国時代
生誕大永7年6月10日1527年7月8日)または享禄2年(1529年
死没永禄4年5月11日1561年6月23日
改名豊太丸(幼名)→斎藤利尚→斎藤范可→斎藤高政→一色義龍
別名通称:新九郎
戒名雲峯玄龍居士
墓所岐阜県岐阜市常在寺
官位治部大輔左京大夫美濃守
幕府室町幕府美濃国守護代/御相伴衆
主君土岐頼芸足利義輝
氏族斎藤氏一色氏
父母父:斎藤道三、母:深芳野[注釈 1]
兄弟義龍、孫四郎喜平次利堯利治(長龍)、帰蝶織田信長正室)、女子(斎藤利三正室)、女子(姉小路頼綱正室)、女子(土岐頼純室)、女子(稲葉貞通正室)、女子(斎藤利之妻、斎藤元忠の母)、義兄弟:正義
妻正室:近江の方(浅井久政の養女で亮政の娘[注釈 2])、継室:一条氏、後室:某
龍興、 菊千代(早世)、伊勢貞良室、池田元助室(長井隼人佐養女)、馬場殿、女
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斎藤 義龍 / 斎藤 高政(さいとう よしたつ / さいとう たかまさ、大永7年6月10日1527年7月8日〉または享禄2年〈1529年〉- 永禄4年5月11日1561年6月23日〉)は、戦国時代武将美濃国戦国大名道三流斎藤氏の第二代当主(美濃一色氏初代とする説もある)。なお、義龍と改名したのは一色姓を名乗った後であるので、斎藤義龍という呼称は適当ではない(斎藤高政あるいは一色義龍が正しい)[1]
生涯

大永7年(1527年)7月8日、斎藤利政(後の道三)の長男(庶子)として生まれる。母は側室の深芳野。幼名は豊太丸、元服後は利尚、高政と名を変えている(『高木貞一氏所蔵文書』)[2]が、本記事では義龍で統一する。

天文23年(1554年)2月22日から3月10日の間に、道三が隠居したため、美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城主となったとされる[3]。この隠居は父・道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある[4]。なお、天文17年(1548年)相続説や、道三の隠居(義龍に稲葉山城を譲り、自身は鷺山城に移動)は『美濃国諸旧記』で述べられているが、『信長公記』や『江美濃記』などの信頼性の高い史料に記述が無く、道三は隠居していないという説もある。

その後、道三は義龍を「耄者(ほれもの、(愚か者の意味)」と断じ、「利口者」の孫四郎喜平次らを溺愛するようになる[5]。一方の義龍も、父の政策と立ち居振る舞いに対して不満と危機感を募らせていく。ついには道三が義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとし、弟の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門一色氏を名乗らせた[5]ことから、両者の関係は最悪の事態を迎えた。

弘治元年(1555年)、義龍は叔父とされる長井道利と共謀して孫四郎・喜平次らをおびき出して日根野弘就に殺害させたため、道三は大桑城に逃走した[5]。なお、『美濃明細記』の分析により、実は喜平次のみは殺害を免れて生き延び、弟とされる利堯になったとする説があるが、この説は成立せず、やはり二人同時に殺害されたとするのが妥当とする反論がある。この生存説かつ同一人物説の根拠とされているのは喜平次と利堯が「玄蕃」という通称・仮名を用いていることである。

弘治2年(1556年)、義龍は長良川にて道三と対峙、道三を支持する勢力は少なく、旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち果たした(長良川の戦い)。また、明智氏など道三に味方した勢力も別動隊を用いた迅速な用兵でほぼ同時期に攻め滅ぼしている。尾張国から織田信長が道三を救援に来ていたが間に合わなかった。義龍と多少の戦闘をしつつ信長は撤退した[5]。なお、この時に義龍の末弟・斎藤利治が尾張の織田家に亡命し、織田信長より偏諱を与えられ長龍と改名している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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