斎藤紀一
[Wikipedia|▼Menu]

さいとう きいち
斎藤 紀一

生誕1861年9月5日文久元年8月1日
日本出羽国村山郡
死没 (1928-11-17) 1928年11月17日(67歳没)
静岡県熱海市
出身校山形県立医学校[1]
東京医科大学[1]
職業医師、政治家
配偶者青木ひさ(斎藤勝子)
子供斎藤輝子(次女)
斎藤茂吉(次女の婿養子)
斎藤西洋 (実子・長男)
テンプレートを表示

斎藤 紀一(さいとう きいち、1861年9月5日文久元年8月1日[2] - 1928年昭和3年)11月17日)は、日本医師脳神経及び精神病専門医[1]、青山脳病院長[3][4])、政治家。 同じく精神科医歌人である斎藤茂吉の養父としても知られる。族籍は東京府平民[2][3][4][5]
人物

東京の開業医として成功、ドイツ留学では医学博士号を取得した[6]。また、一代で大規模な精神病院、「青山脳病院」を築き、帝国議会議員としても華麗な生活を送った[6]。性格的には大言壮語が目立ち、孫である斎藤宗吉(北杜夫)からは後に、「口先がうまく、成り上がり者貴族趣味の俗物」と評されている[7]。北の長編小説『楡家の人びと』の主人公楡基一郎のモデルでもある。住所は東京市赤坂区青山南町[2][3][5]
生い立ち

1861年(文久元年)8月1日、出羽国(現在の山形県)村山郡金谷村金瓶に生まれた[8]。生家は農家で、名主の家柄であった[9]。名声は遠近に聞こえていた[1]。斎藤文三郎の長男[4][5]

1880年明治13年)に上京して普通学[5]ドイツ語を習得すると[2][9]、郷里に戻って1883年(明治16年)、山形県立医学校に入学し、1886年(明治19年)に卒業した[1]。山形医学所を卒業した[8]。その後再び上京し、医術開業試験の予備校であった済生学舎に学んだ。1888年(明治21年)、内務省医術開業試験に及第した[1]1888年(明治21年)12月、埼玉県大宮(現さいたま市)で医業を始めた[8]。大宮では青木ひさ(後に勝子と改名)と出会い、結婚した[8]
医業の開始

1891年(明治24年)、東京・浅草に移って、診療所 「浅草医院[10]」を開業した[8]。同年東京医科大学に入り、1893年(明治26年)[5]、あるいは1894年(明治27年)に卒業した[1]

医院は大繁盛となり、1894年(明治27年)には2件目の病院、東都病院を神田和泉町に開業した[11]。男児がいなかった斎藤は跡継ぎを考え、同郷である山形県南村山郡の出身で成績優秀だった少年、茂吉を浅草の自宅に迎えた。1905年(明治38年)、茂吉を当時9歳だった次女・輝子の婿養子として齊藤家の籍に入れた[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef