斎藤真一
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この項目では、洋画家について説明しています。銀行家については「齋藤眞一」をご覧ください。
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斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家作家[1][2]。映画「吉原炎上」の原作者としても知られる。
生涯

斎藤真一は1922年(大正11年)、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。1935年(昭和10年)に岡山県立天城中学校に入学すると、味野から峠を越えて天城中学まで3里半の道のりを5年間、自転車で通学する。2年生で陸上部に入部、秋から県大会に出場し始めるとしばしば入賞し、3年生で県下の駅伝大会にアンカーとして出場し優勝、天城中学の名を高める。その実績を買われて4年次にマラソンに誘われるが、好きな絵を優先させて断念する。油絵具を買ってもらうと猛烈に絵に興味を抱き、日曜日ごとに天城中学より更に2里離れた大原美術館に通ううち、グレコセガンチニコッテ に魅了される。教師から藤田嗣治の複製画を見せられて虜になり、上野の美校(東京美術学校)に憧れる。中学校卒業の年1940年(昭和15年) に岡山県立天城岡山師範二部に入学、美校進学を目指し、師範学校の2年間はデッサン室にこもり親友と受験デッサンに明け暮れ、師範学校の2年次に東京美術学校(現・東京芸術大学)師範科を受験して合格、1942年(昭和17年)東京へ移ると、まもなく徴兵に応召、海軍に3年従軍して学籍に戻った。

1948年(昭和23年)に卒業すると、静岡市立第一中学校に職を得る。この年、第4回日展に「鶏小屋」が初入選する。翌 1949年(昭和24年)、郷里の岡山県味野中学校に転任、萩野悦子と結婚すると退職し、ごく短い期間、神奈川県の鵠沼に住むが岡山に戻り、岡山県立天城高等学校の非常勤講師として1950年(昭和25年)から勤めている。翌年、長男・裕重が生まれ、光風会第38回展入選(「閑窓」)を経て1953年(昭和28年)に静岡県立伊東高等学校に着任すると創作に力を入れ、 1957年(昭和32年)、光風会第43回展に「立春の道」を出展し、プールヴ賞を受賞すると、次の年、パリに留学。渡航の費用は静岡伊東岡山で個展を開いたり、弟・彰男、妹・昌子など親族の援助を受けて捻出したものだった。横浜から船でマルセイユに渡り、イタリアまで原動機付自転車で40日かけて放浪の旅をしたという。アカデミー・グラン・ショーミエールで学び、藤田嗣治と親交を深める。

パリ留学は2年にわたり、1960年(昭和35年)に帰国、文藝春秋画廊(東京)にて帰国後初の個展を開く。帰国に際して藤田嗣治から「日本に帰ったら秋田や東北の良さを教えられ、自分の画風で描きなさい。」と勧められており、斎藤は次の夏に津軽を訪れるとねぶた祭に感動し、津軽三味線の音色に驚いたという。宿の古老から瞽女のことを教えられて心を惹かれ、年が明けると盲目の女性を描いている。初めて杉本キクエ瞽女を訪ねるのは1964年(昭和39年)で、翌年よりおよそ10年間、休暇のほとんどをさいて瞽女を取材するため越後に通うきっかけとなった。その間、「越後瞽女日記」展を文藝春秋画廊で開き(1970年(昭和45年)東京・羽黒洞主催)、1971年(昭和46年)には「星になった瞽女(みさお瞽女の悲しみ)」で第14回安井賞佳作賞を受賞、18年間勤めた伊東高校を退職、1年間水上勉「松吟庵記」(月刊誌『小原流挿花』)の挿し絵を描いている。
ライフワークと執筆

越後に通っては書きためたものをまとめた著作は相次ぎ賞を受け、『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年)が1973年(昭和48年)に第21回日本エッセイストクラブ賞[3]、同年、『越後瞽女日記』(1972年)はADC賞(美術出版社)に選ばれている。以後、不幸な女たちを主たる題材として、画文集を多く刊行していく。また映画や演劇の仕事が入り、『津軽じょんがら節[4]では挿入絵の制作と考証にあたり、劇団文化座の「越後瞽女日記」でも考証を担当した。瞽女から明治期の遊廓の女性へと題材は深まり、母の知り合いで同郷の倉敷出身の女性が花魁だったことから1985年には『明治吉原細見記』と『絵草子吉原炎上』を上梓している。これら2作は五社英雄監督の映画「吉原炎上」(東映株式会社)の原作となった。

水上勉の新聞小説(1971年)の挿画以降、瀬戸内寂聴「遠い風近い風」(1975年・朝日新聞)と、やはり水上の「長い橋」(1984年・日本経済新聞)を手がけ、和田芳恵著『道祖神幕』(1977年)の挿画と装丁を手がける一方で、神沢利子の詩集『いないいないの国』(1979年)や小川洋子著『シュガータイム』[5]に挿画を提供した。

斎藤真一は生涯に旅を重ねたことでも知られている。海外旅行はパリ留学に出発した1958年に始まり、1970年代はイタリアをシチリアからトスカーナまでめぐった1ヶ月の旅のほか、画商の見本市や個展などの機会を捉えてはほぼ毎年、ヨーロッパを訪れた。
作品
栄典

1948年(昭和23年) - 第4回日展に初入選。「鶏小屋」

1951年(昭和26年) - 光風会第38回展入選。「閑窓」

1957年(昭和32年) - 光風会第43回展プールヴ賞。「立春の道」

1973年(昭和48年) - 第21回日本エッセイストクラブ賞『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年)、美術出版社ADC賞『越後瞽女日記』(1972年


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