斎藤守慶
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さいとう もりよし
斎藤 守慶
生誕
1928年11月26日
東京都
死没 (2008-06-04) 2008年6月4日(79歳没)
大阪市
死因虚血性心不全
国籍 日本
民族日本人
出身校東京大学経済学部
職業実業家
活動期間1951年 - 2008年
著名な実績毎日放送[※ 1]代表取締役社長(1985年 - 1997年)
配偶者あり
親斎藤守圀(元福岡県知事
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斎藤 守慶(さいとう もりよし、1928年昭和3年)11月26日 - 2008年平成20年)6月4日)は、日本の経営者、毎日放送[※ 1]元社長・会長・最高顧問。父は福岡県知事(官選時代)などを務めた斎藤守圀
来歴・人物

東京都出身(本籍は福岡県)。東京大学経済学部卒業後、1951年(昭和26年)に毎日新聞社へ入社。
大阪テレビ時代

1955年(昭和30年)、大阪テレビ放送(現・朝日放送テレビ)に出向。毎日新聞グループと朝日新聞グループの合弁で設立された大阪最初の民放テレビ局で、営業担当として開局準備にあたった。ここで放送人、経営者として終生尊敬することになる新日本放送(NJB)専務高橋信三と出会う[1]
毎日放送移籍、社長就任まで

1958年(昭和33年)、大阪テレビが解体されることが決まる。斎藤は高橋とともに、OTVの引き取り先を決めるABC社長飯島幡司とNJB社長杉道助による「世紀のジャンケン大会」を見届ける。この結果OTVはABCに引き取られることが決まり、NJBは新たに免許を取得することになった。NJBは社名を現在まで続く『毎日放送』に改め、その直後、斎藤はMBSにテレビ開局の準備要員として移籍した。詳細は「ネットチェンジ#朝日放送と大阪テレビ放送との合併について」を参照
MBSテレビ開局と腸捻転

斎藤は立ち上がったばかりのMBSテレビ営業課で、高橋らとともにスポンサーや広告代理店との交渉を担当。MBSテレビとラジオ東京テレビ(KRT、現在のTBSテレビ)による東阪間ネットワーク確立に向けて奔走した。しかし、KRT側の交渉担当者だった常務今道潤三は、「KRTはOTVとネット協定を結んでいる。OTVを引き継ぐのがABCであるなら、ABCとネットを組むのが当然の流れ。ネット番組はそう簡単には動かせない」としてMBSテレビとのネットを拒否した。詳細は「ネットチェンジ#毎日放送からみた歴史」を参照

斎藤は高橋に相談、高橋はラジオの『FOLネット』(NJB、ニッポン放送ラジオ九州によるスポーツ中継専用のネット)を通じて親交のあったニッポン放送専務鹿内信隆に掛け合う。当時、東京でも民放第3局フジテレビジョンと第4局日本教育テレビ(NET、現在のテレビ朝日[2])の開局が既に決まっていて、鹿内の勤めるニッポン放送が出資したフジテレビとネットを確立しようという目論見だった。当時は近畿圏第3局として先に開局が決まっていた大関西テレビ(KTV、現在の関西テレビ)のキー局としてNETの名前が浮上していたこともあり、MBSとフジテレビのネット樹立はいけるとの手応えを掴んでいた。詳細は「前田久吉#産経新聞の売却」および「全国ラジオネットワーク#補足」を参照「RKB毎日放送#ネットワークと放送エリア」も参照

しかし、大関西テレビの筆頭株主だった産業経済新聞社は同年、一時別会社となっていた東京本社を吸収合併したことで経営が悪化。創業者の前田久吉が退き、フジテレビと文化放送の社長を既に兼務していた水野成夫が産経新聞社長も兼務することになって流れが変わる。これで大関西テレビとフジテレビの間のラインは決定的になり、FNSの基礎となる番組供給協定を交わした。これにより、MBSとフジテレビによる完全ネットも不可能になってしまった。詳細は「フジネットワーク#沿革」を参照

結局、MBSがネットを組める相手はNETしかなくなり、MBSテレビの開局も当初の予定から3ヶ月遅れてやはりNET系列結成メンバーとなる九州朝日放送(KBC)と同時の1959年(昭和34年)3月1日になった。NETのニュースは開局当初から朝日新聞に製作が委託されていて、1964年には朝日新聞社がNETの親会社の一角に加わるなど、MBSにとっては、OTV時代のABCと同様の取り組みにくい相手となった。詳細は「オールニッポン・ニュースネットワーク#ネットワークの形成」および「九州朝日放送#ネットワークの変遷」を参照「テレビ朝日#沿革」も参照
対等意識とキー局指向

しかしネットワーク確立に向けた斎藤と高橋の幾多の交渉で営業戦術を磨いたMBS社内には、いつしか在京キー局との対等意識が育まれていた。そしてそれはMBSが在京局と同様の本格的な全国発信を行える在阪唯一のテレビ局を目指すという、「キー局指向」へと昇華していった。斎藤もテレビ営業を率いる立場でキー局NETやフジテレビ、また「毎日新聞ニュース」の裏送りで関係のあったKRT改めTBS、そして後にクロスネットを結んだ首都圏第5局東京12チャンネルと対等の立場で渡り合った。「MBSニュース#歴史」も参照

開局後数年間、NET系という系列の枠を超えてMBSとフジテレビは相互にテープネット番組のやり取りを行った他、第35回選抜高等学校野球大会1963年)のスポンサードネットやごくわずかなミニ番組などでは例外的にTBSとも相互取引していた。これは高橋と斎藤がフジテレビ・TBSとの関係をあきらめなかった故の産物だった。「高橋信三#MBSテレビ開局」も参照

1963年(昭和38年)10月改編で、NETは前年12月にレギュラー化されネットしていた『サモン日曜お笑い劇場』(現・『よしもと新喜劇』)が視聴者の支持を得られなかったとして、この年の6月に立ち上げられた『大正テレビ寄席』を『お笑い劇場』の放送時間だった日曜12時台に移動して打ち切る。詳細は「大正テレビ寄席#毎日放送の決断」および「高橋信三#大正テレビ寄席打ち切り事件」を参照

NETはスポンサーの大正製薬が同時間帯の全国ネット番組を『テレビ寄席』に一本化するとして、新喜劇放送を打ち切るように指示するが、斎藤はMBSと吉本興業の社運がかかった新喜劇の放送を存続するため、逆に「両番組の放送時間がかち合ったので例えローカルになっても関西では新喜劇をやる。スポンサーとして残ってくれ」と大正を説得、最終的に高橋が大正社長上原正吉の首を縦に振らせ存続が決まった。詳細は「大正テレビ寄席#お笑い劇場とダイビングクイズ」および「よしもと新喜劇#地方への番販ネットと朝日放送への打倒」を参照

1968年(昭和43年)、東京12チャンネルが破綻寸前となり、MBSは後に受け皿となる制作会社「東京12チャンネルプロダクション」(現・テレビ東京)に出資する。MBSは自社制作番組をNETだけでなく東京12チャンネルにも流すようにする。翌1969年(昭和44年)10月改編で、NETでスタート当初の3ヶ月間放送した『ヤングおー!おー!』が「関東での知名度がほとんどないレギュラー陣ではTBSと戦えない」という理由で一方的に打ち切られる。斎藤は高橋の特命を受け、東京12チャンネルプロダクションに指示してネット先を変更、さらに放送時間も変更して継続させた。その結果関東での視聴率こそ伸び悩んだものの番組は「西の笑点」の異名を取るほどの大ヒットとなり、1982年(昭和57年)10月改編で打ち切られるまで、13年続いた。

1971年(昭和46年)12月の『23時ショー』打ち切り事件では、社長として最終決断をした高橋を営業の立場から支え、打ち切り後の同枠を東京12チャンネルからの遅れネットで埋めた。詳細は「お色気番組#概要」を参照
ネットチェンジと新喜劇

1971年(昭和46年)にテレビ営業局長、1973年(昭和48年)6月の株主総会取締役選任。テレビ開局から16年後の1975年(昭和50年)3月31日、毎日放送テレビがTBS系列にネットチェンジした際には、JNNネットワーク協議会総会にMBSを代表して出席。入会の挨拶ではMBS主催で前年に始まったばかりのダンロップフェニックストーナメントに引っかけ「(ANN系時代は)ゴルフでいえば隣のコースでプレーしていたようなもの。


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