この項目では、1887年生の英文学者について説明しています。1929年生の英文学者については「斎藤勇 (同志社大学)」をご覧ください。
1979年1月27日、東京都新宿区の自宅書斎にて.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学
斎藤 勇(さいとう たけし、1887年2月3日 - 1982年7月4日[1])は、日本の英文学者。位階は正三位。文化功労者、日本学士院会員。日本英文学会第3代会長(1938年 - 1941年)。東京女子大学学長(1948年 - 1954年)。東京帝国大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授。文学博士。「斎藤英文法」で知られる[2]。孫に惨殺された(斎藤勇東大名誉教授惨殺事件)。 福島県伊達郡富野村(現伊達市梁川町)に農家の長男として生まれる[3]。旧制福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、1905年、旧制第二高等学校(現東北大学)に入学。1908年、第二高等学校卒業後、東京帝国大学文科大学(英吉利文学専修)に入学。1912-1913年頃の齋藤勇(前列右端)。植村正久(前列中央)、高倉徳太郎 (前列左から2人目)等と。 1911年、東京帝国大学卒業、恩賜の銀時計を受ける。同年、東京帝国大学大学院入学、1913年から1923年まで東京帝国大学文科大学の講師嘱託。1917年、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学の構成母体)教授。 1923年から東京帝国大学文学部助教授に転任し、同年4月から1925年6月まで英文学研究のため在外研究員として欧米へ出張。ロンドン、オックスフォードを中心に滞在して博士論文を執筆する傍ら、フランス、イタリア等、欧州各国及びアメリカを歴訪した。この留学中には、ラルフ・ホジソン、エドマンド・ブランデン、ジークフリード・サスーン等の詩人、学者との知遇を得て、その後生涯にわたり親交を深めている[4]。また、精力的、計画的に、演劇、音楽、美術鑑賞もしている[5]。 1927年、論文Keats’ View of Poetryにより文学博士の学位を得る[6]。1931年、東京帝国大学教授に昇任。1941年には正四位に叙せられ、1943年に勲二等瑞宝章を受章。1947年に東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、1948年から1954年まで東京女子大学学長を務める。この間、1949年、市河三喜、福原麟太郎、 大和資雄、中野好夫、豊田実たちと共に財団法人日本英文学会を設立[7]。
経歴・人物