斎藤勇_(イギリス文学者)
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、1887年生の英文学者について説明しています。1929年生の英文学者については「斎藤勇 (同志社大学)」をご覧ください。
1979年1月27日、東京都新宿区の自宅書斎にて.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学

斎藤 勇(さいとう たけし、1887年2月3日 - 1982年7月4日[1])は、日本の英文学者位階正三位

文化功労者日本学士院会員。日本英文学会第3代会長(1938年 - 1941年)。東京女子大学学長(1948年 - 1954年)。東京帝国大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授。文学博士。「斎藤英文法」で知られる[2]。孫に惨殺された(斎藤勇東大名誉教授惨殺事件)。
経歴・人物[ソースを編集]

福島県伊達郡富野村(現伊達市梁川町)に農家の長男として生まれる[3]。旧制福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、1905年、旧制第二高等学校(現東北大学)に入学。1908年、第二高等学校卒業後、東京帝国大学文科大学(英吉利文学専修)に入学。1912-1913年頃の齋藤勇(前列右端)。植村正久(前列中央)、高倉徳太郎 (前列左から2人目)等と。

1911年、東京帝国大学卒業、恩賜の銀時計を受ける。同年、東京帝国大学大学院入学、1913年から1923年まで東京帝国大学文科大学の講師嘱託。1917年、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学の構成母体)教授。 1923年から東京帝国大学文学部助教授に転任し、同年4月から1925年6月まで英文学研究のため在外研究員として欧米へ出張。ロンドン、オックスフォードを中心に滞在して博士論文を執筆する傍ら、フランス、イタリア等、欧州各国及びアメリカを歴訪した。この留学中には、ラルフ・ホジソン、エドマンド・ブランデン、ジークフリード・サスーン等の詩人、学者との知遇を得て、その後生涯にわたり親交を深めている[4]。また、精力的、計画的に、演劇、音楽、美術鑑賞もしている[5]

1927年、論文Keats’ View of Poetryにより文学博士の学位を得る[6]。1931年、東京帝国大学教授に昇任。1941年には正四位に叙せられ、1943年に勲二等瑞宝章を受章。1947年に東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、1948年から1954年まで東京女子大学学長を務める。この間、1949年市河三喜福原麟太郎大和資雄中野好夫豊田実たちと共に財団法人日本英文学会を設立[7]1950年から始まったチャタレイ裁判では検察側証人として出廷[8]

1953年国際基督教大学の開学に参加し、1954年から1964年まで国際基督教大学教授。1961年、日本学士院会員となり、1975年文化功労者に選ばれる。1979年イギリスの文化と文学を日本へ紹介した功績が評価されて、 エリザベス女王よりイギリス名誉騎士勲章(Honorary Knight Commander of the Order of the British Empire)を授けられる。1981年キリスト教功労者を受賞[9]。95歳という高齢になってもなお研究・著作の意欲は旺盛であったが、1982年7月、東京都新宿区の自宅書斎にて、当時27歳の孫に襲撃され、不慮の死を遂げた。同年、正三位に叙せられる。墓所は多磨霊園(16-1-3)。「斎藤勇東大名誉教授惨殺事件」も参照

日本における英語英米文学研究の生みの親であると同時に、牧師植村正久に師事した敬虔なクリスチャンとしても知られ、日本のキリスト教界でも重鎮として信望を集めた。
家族[ソースを編集]

父・斎藤勇蔵 - 福島県伊達郡にて農業[10]

妻・富美子(文子) - 河本重次郎の二女[10]

長男・斎藤光 - アメリカ文学者、東大名誉教授。岳父に高木八尺

長女・千鶴子 - 平井正穂の妻[10]

二女・敏子 - 神戸大学名誉教授・紅松康夫の妻

次男・斎藤眞 - 政治学者、東大名誉教授

三女・富士子 - 佐波正一の妻

日本における英文学研究の創始[ソースを編集]

斎藤が東大英文学科に入学した時には、夏目漱石上田敏も既に去り、日本人はひとりも教えていなかった。また、当時の東大英文学科の学風は、一つの主流が際立っていたわけではなかった。斎藤は多様な研究態度があることがむしろ望ましいと考え、夏目、上田両先達の跡を追うことはせず[11]、独自にイギリスの宗教詩研究の道に向かった。その後、日本の英文学研究の学問的レベルを高めることに努め、1913年からは東大の教壇に立って、日本人の英文学教員として実質的に夏目の後継者となった[12]

碩学、英文学界の泰斗と称された齋藤の学風をドイツ文学者の小塩節は、「まず第一に原典にあたって正確であること、次いで全体として見通しが大きくあるということ、第三に英文学の本質をキリスト教的愛と見さだめて、そこにまっしぐらにはいっている」[13]と評している。これらの特色は主著の多くに一貫して見られるが、とりわけ、広い視野に立って規範的な大作家に取り組み、関係批評書によって作品についての新知識を集積するよりも原典にあたって作品そのものを熟読することを重視していた[14]。このような研究方針のベースには、英米の書誌学(en:bibliography)・本文研究(en:textual studies)に対する高い見識があり、市河三喜が「英文学関連では東洋一」と称賛した蔵書[15]を精選する基準にもそれが反映していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef