斎藤了
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斉藤亮」あるいは「齋藤遼」とは別人です。

斎藤 了

プロフィール
リングネーム斎藤 了
斎藤"ジミー"了
東大阪 正人
本名斎藤 了
ニックネームDRAGON FLY
コミカルレスラー
身長170cm
体重80kg
誕生日 (1979-08-15) 1979年8月15日(44歳)
出身地山形県山形市
所属DRAGON GATE
スポーツ歴空手
野球[1]
トレーナーウルティモ・ドラゴン
デビュー1999年5月15日
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斎藤 了(さいとう りょう、1979年8月15日 - )は、日本男性プロレスラー山形県山形市出身。DRAGON GATE所属。血液型AB型。

現在はDRAGON GATEの選手及びゼネラルマネージャー兼大会本部長として活動している[2]
来歴

東海大学山形高等学校卒業後に闘龍門の4期生としてメキシコへ渡り、1999年5月15日、メキシコのアレナ・ナウカルパンで神田裕之戦でデビュー[1]。同期には玉岡金太がいる。

自転車に乗りながら入場するというメッセンジャーのギミックで日本逆上陸後、自転車を盗まれたことから始まったドン・フジイとの抗争で好青年かつ天然キャラを確立し人気を博す。1年近く抗争は続き、自転車を奪還するとフジイにラブコールをしてタッグ結成を呼びかけた。フジイはしばらく渋っていたものの熱意に折れ、自転車兄弟としてタッグを組み、二人乗り自転車で入場するようになった。その後はアンソニー・W・森にもラブコールを送ってタッグを組んだりと、正規軍にいながらユニットを越えた動きを見せていた。しかし望月成晃との抗争から正規軍を離脱。その後Do FIXER入りするために自身のトレードマークである自転車をパイプ椅子で殴打した後、マグナムTOKYOにDo FIXER入りを認められた。

2005年からはマグナムTOKYOによりメンバーでは最年少ながら最も積極的なプレーを認められ、2代目リーダーに指名されている。この頃から肉体改造に成功し、体が一回り大きくなった。この年の第1回KING OF GATEで優勝を果たし、余勢を駆って翌2006年2月にマグニチュード岸和田を下してオープン・ザ・ドリームゲート王座を戴冠し、第4代王者となる。しかし、4月に横須賀享に敗れ、防衛0で王座を明け渡す[3][4]。横須賀とのライバルストーリーはその後も展開される。

2007年に入り堀口元気と仲間割れするも、後に和解。しかし、2月4日の博多大会で裏切られ、堀口はマッスル・アウトローズに加入し、Do FIXERは解散。その後、CIMA、享に救出され、ドラゴン・キッドとともにTyphoonに加入。Typhoon加入後は横須賀享とのタッグ「リョウスカ」でさまざまな合体技やコンビネーションを見せるようになり、7月1日には邪道&外道を破り、IJタッグ王座を獲得し、第13代王者となる。後に、土井成樹&吉野正人の「土井吉」や新井健一郎&岩佐拓の「新岩」らと数々の名勝負を繰り広げるようになり、タッグ戦線が激化していくようになった。7月10日のオープン・ザ・ドリームゲート王座・次期挑戦者決定ワンナイト・トーナメント1回戦でB×Bハルクと激突し、敗北するもののハルクが顎を負傷したため、敗者復活戦が行われる。以降、ハルクとの遺恨が発生する。12月28日後楽園ホールでのサイバー・コングとのシングルマッチにてサイバーのコスチュームを真似たサイバー・リョウとして登場。パイナップルではなくキュウリを割ったり、動作もサイバーの真似をし若干サイバーをあきれさせたがパワーを見せつけメッセンジャーで勝利した。

2008年2月17日、吉野正人の持つオープン・ザ・ブレイブゲート王座に挑戦するが敗北。その後、CIMAが挑戦表明するものの、CIMAがブレイブゲートを侮辱するような発言をしたため、仲間割れする。4月27日、CIMAの持つドリームゲートに挑戦するが、敗北したものの試合を通じてCIMAとも和解。5月5日、リョウスカとして、新井健一郎&岩佐拓の持つオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦し王座獲得、第3代王者となる。

2009年2月15日の博多スターレーン大会において、Typhoon解散後に共闘を呼びかけた横須賀享とオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦したが、試合中にパートナーの横須賀享を裏切り、REAL HAZARD入りした。3月22日、堀口元気をパートナーにGamma横須賀享組の持つツインゲートに挑戦するが、反則負けになる。試合後、王者組が「2度とあいつらの挑戦は受けない。」発言する。しかし、同じタッグで4月18日、19日に行われたオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座・次期挑戦者チーム決定トーナメントに優勝し、発言を逆手に取る形で挑発し、同門である新井健一郎&神田裕之組も加えた3Wayマッチを要求し、5月5日の愛知県体育館大会では実質的に4対2の3Wayマッチで王者組から勝利を奪い、自身2度目のオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座を獲得。6月7日の名古屋国際会議場大会のオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座の防衛戦で、挑戦者の鷹木信悟の腕をコーナーにガムテープで縛りつけ、その間にドラゴン・キッドからダブルクロスで3カウントを取り初防衛を果たす。しかし、12月13日の試合中にアキレス腱を断裂し、長期欠場に入る。

2010年4月25日博多スターレーンにて復帰、堀口元気がWARRIORS-5に加入させようとするも「やり残したことがあるような気がしたんで、ごめんなさい」と拒否。「やり残したこと」とは横須賀享との再タッグ結成だったが、享に断られてしまう。その後「訳がわからないからWARRIORS-5でやっていきましょう」とWARRIORS-5に加入した。長期欠場の影響で復帰当初はTyphoon時代のコスチュームにDoFIXER時代のTシャツを着用したり、ドラゴン・キッドのことが思い出せないなど(ギミック上)記憶喪失状態に陥っていたが、後にキッドの一撃がきっかけで記憶を取り戻した。その後WARRIORSがBlood WARRIORSとなりヒール化、戸澤らに追放された。

2012年3月に堀口、神田とジミーズ加入、同時に斉藤"ジミー"了と改名した。11月8日後楽園大会のメインイベント後のマイクでCIMAから「ゴミ」呼ばわりされたが、12月8日札幌テイセンホール帰ってきたベテラン軍 vs ジミーズ シングル3番勝負にて3試合目に出場し、望月と対戦。11分18秒プレミアム・ブリッジで勝利。同月28日兵庫・神戸サンボーホールのオープン・ザ・トライアングルゲートにて、再び望月からプレミアム・ブリッジでフォールを奪うなど活躍し、存在感を見せた。

2013年には1月20日にCIMA、9月12日にYAMATOと、2度ドリームゲート王座に挑戦。獲得はならなかったが善戦した[4]。12月にはススム・谷嵜とともにオープン・ザ・トライアングルゲート王座を獲得したが、2014年2月に椎間板ヘルニアで欠場し、王座返上となった[5]。一方で2013年3月7日に菊タローを破ってオープン・ザ・お笑いゲート王座を初戴冠。こちらは7度の防衛を果たして2014年を迎えている[6]

欠場期間中ドラゴンゲートの大会にセコンドとして登場することもあるがプライムゾーンではくまモンのTシャツを着てペロペロキャンディをなめながら登場するおバカな子供キャラになりよく琴香の前に登場する。また内紛状態のジミーズの前に現れ、辛い胸の内を語り仲直りさせたこともある。

またプライムゾーンvol.20からはリングレポーターとして登場。

10月11日、地元山形大会で復帰が決定。試合はススムと神田とタッグを結成しYAMATO&サイバー・コング&パンチ富永組と対戦する。パンチにプレミアムブリッジを決めて勝利する。

10月19日には復帰祝いとしてベテラン軍の持っていたトライアングルゲートに挑戦し、ベテラン軍は防衛0でジミーズの堀口とススムと戴冠した。その際、「フジイさんをコロッと丸め込んだら3つ入っちゃいまして」とマイクで語る。

2015年より、MAD BLANKEYに加入したタツキことドン・フジイに更生することを求めて金八先生ならぬ了八先生として上半身のみ金八先生モデルのスーツを着て度々試合にMAD BLANKEYに臨み、シングルでは直接勝利。その後行われた金網マッチでは、フジイが学ラン姿で登場、MAD BLANKEYを脱退する。この金網マッチ以降はノブヒコことCIMAとヨシヒトことGammaも加わり後楽園中学3年B組生徒会としても活動する。タツキは先生の一存で生徒会長、ノブヒコは野球部を希望したが日直、ヨシヒトは字がきれいと言うことで書記に任命されたが6月3日の後楽園ホール大会で解散となった。

8月16日、ジミーズの仲間と共にMAD BLANKEYとの解散マッチを行い、なんとかジミーズを守った(最終的に勝負を決めたのはススムである)。


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