斎藤一
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その他の「さいとうはじめ」の同名の人物については「Wikipedia:索引 さいと#さいとうは」をご覧ください。

 凡例斎藤 一

時代江戸時代末期(幕末) - 大正時代
生誕天保15年1月1日1844年2月18日
死没大正4年(1915年9月28日(71歳没)
改名山口一→斎藤一→藤田五郎
別名山口二郎、一瀬伝八
墓所福島県会津若松市七日町阿弥陀寺
官位勲七等
主君松平容大
陸奥斗南藩士
父母父:山口右助、母:ます
兄弟勝、廣明、一
妻篠田やそ
高木時尾
子藤田勉、剛、龍雄
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斎藤 一(さいとう はじめ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:齋藤󠄁 一、天保15年1月1日1844年2月18日) - 大正4年(1915年9月28日)は、日本武士新撰組隊士)、警察官階級警部勲等勲七等青色桐葉章

幕末期に新撰組で副長助勤、四番隊組長、三番隊組長、撃剣師範を務める。一時期御陵衛士に入隊。戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。明治維新警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷軍と戦う。

退職後、東京高等師範学校東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の守衛東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛を務める[1]。出自、経歴は不明な点も多い。
生涯
出自

父・山口右助、母・ますの三子として生まれたとされる。姉に勝(ひさ)、兄に廣明。出身地は江戸播磨国ともいわれる)。父が明石出身であったことから明石浪人、または播州明石浪人を名乗ったようである[2]。父・右助は播磨国明石藩足軽であったが、江戸へ下り石高1,000石の旗本則定鈴木家に仕えたとされる。後に御家人株を買って御家人になったと言う[3]が、実際は鈴木家の公用人(家来)として山口喜間多(廣明)の名前が確認できる[4][リンク切れ]。
青年期

19歳のとき、江戸小石川関口で旗本と口論になり、斬ってしまう。父・右助の友人である京都剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めた。

永倉新八の手記『浪士文久報国記事』には、斎藤は江戸で近藤勇天然理心流試衛館に出入りしていたと記されている[5]が、のちに近藤が京都に滞在した試衛館の一同に武具を届けさせたときには、斎藤は含まれていない。浪士組にも参加しておらず、京都で新選組の徴募があった際に初めて加入したとも考えられる。少なくとも斎藤の上洛は近藤たちとは別行動であった(もっとも、近藤とともに上洛した者たちにしても統一行動をとっていたわけではない)。新谷藩に仕えた香渡晋(黙斎)が文久2年(1862年)から京都で面会した人々を記した『(文久二壬戌歳上洛中)応接録』には「江戸 斎藤一」の名前が現れている[6]
新選組

文久3年(1863年3月10日芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組を結成。同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなる。新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。後に長州征討に向け再編成された新選組行軍録には三番隊組長として登場し、撃剣師範も務める。

元治元年(1864年6月5日池田屋事件では、土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた。

新選組内部での粛清役を多く務めたとされ、長州藩の間者(スパイ)であったとされる御倉伊勢武荒木田左馬之助のほか、武田観柳斎らの暗殺に関与したとも言われるが、事実と符合しないことも多い。

慶応3年(1867年3月伊東甲子太郎御陵衛士を結成して新選組を離脱すると、斎藤も御陵衛士に入隊する。間者として潜入していたとされる[7][8]。新選組に復帰する際、御陵衛士の活動資金を盗んで逃げた。これは金に困って逃げたように見せかけるためであったとされる[7][8]稗田利八の述懐によれば、斎藤が新選組に戻った際、「副長助勤斎藤一氏、公用をもって旅行中のところ、本日帰隊、従前通り勤務のこと」と掲示が出ていたという[9]。新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した油小路事件は、斎藤が復帰の際にもたらした情報に基づいて起きたともいわれる。

同年12月7日紀州藩の依頼を受けて、同藩士・三浦休太郎警護し、海援隊陸援隊の隊員16人に襲撃される(天満屋事件)。三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり、宮川信吉と舟津釜太郎が死亡、梅戸勝之進が斎藤をかばって敵の刃を抱き止め、重傷を負うなどの被害を出した。斎藤は鎖帷子を着ており無事であった。三浦は顔面を負傷したものの命に別状は無かった。

将軍徳川慶喜大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加する。慶応4年(1868年1月鳥羽・伏見の戦いに参加、3月に甲州勝沼に転戦。斎藤はいずれも最前線で戦った。近藤勇が流山新政府軍に投降したあと、江戸に戻った土方歳三らとともに国府台大鳥圭介率いる伝習隊や秋月登之助と合流の後、下妻へ向かった[10]。土方は同年4月宇都宮城の戦いに参加、足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着いた。

斎藤(24歳)ら新選組は会津藩の指揮下に入り、4月5日には白河口の戦いに参加。


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