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出典検索?: "斉" 楚漢戦争
首都臨?(現在の山東省?博市臨?区)
王
前209年 - 前208年田?
前206年 - 前205年田栄
前203年 - 前202年田横
変遷
建国前209年
項羽により受封前206年
韓信により滅亡前202年
斉(せい、紀元前209年 - 紀元前202年)は、秦朝末期から前漢初期に存在した国家。中国戦国時代の斉は紀元前221年に秦によって滅亡した。秦末民変
(中国語版)中に、田?は斉を復古させ、都城を臨?(現在の山東省?博市臨?区)に置いた。その後田假・田?が継いだ。秦が滅び、紀元前206年正月に項羽が諸侯を分封すると、斉は三分された。田都は斉王、田安は済北王、田?は膠東王となった。田栄が三斉(中国語版)を統一した。田広・田横が後を継いだ。紀元前202年、韓信が劉邦の命令を奉り斉を滅ぼした。そして、韓信が斉王となった。趙高によって秦が衰退すると、かつて秦に滅ぼされた田氏一族の代表である田?らが陳勝に呼応して反乱軍に参加した。田?は秦の章邯に討たれるが、田假(田建の弟)の短い在位を経て田?の従弟である田栄が田?の子である田?を擁立、自らは宰相となって秦への抗戦を続けた。その後秦が滅亡すると、項羽の封建によって斉は三分割され、田栄から離反した田氏一族の田都が斉王に、同じく独自に楚に従った田安(田建の孫)が済北王に封じられた。そして斉は田假を項梁が匿ったことを理由に楚に対して援軍を出さなかったため、元の斉王田?は残る膠東王に格下げとなり、斉の実権を握る田栄には何の恩賞もなかった。
不満を持った田栄は田?を留める一方、田都を撃退して楚に追放した。しかし田?は項羽を恐れて、膠東に向かい封地につこうとした。これに激怒した田栄は田?を殺害して、自ら斉王に即位して項羽に対して反乱を起こした。田栄は彭越を懐柔して残る田安を討たせ再び斉を統一し、さらに同じく封建されず項羽に不満を持つ陳余と結んで項羽に対して徹底的に抗戦した。これに激怒した項羽は自ら斉討伐に向かい、項羽は田栄を破った。そして田栄が庶民に殺害されると、項羽は田假を再び斉王に立てた。
しかし、田栄の弟の田横が中心となって抵抗を続けた。この時、項羽は多数の斉の捕虜を生き埋めにして殺害していたために、斉は必死になって抵抗し、斉を平定することができなかった。この間に劉邦が蜀・漢中から挙兵し、関中と彭城を手にしたために項羽は斉から反転し、劉邦の軍勢と戦うことになった。項羽が斉から撤退すると田横は田栄の子である田広を斉王として擁立し、自らは宰相となって実権を掌握した。
その後、劉邦配下の韓信による諸国征伐が開始されるが、劉邦の配下の?食其が斉との同盟を結ぶ使者として訪れ、劉邦と斉は同盟する。ところが、韓信は陣営にいた説客の?通の進言でそれを無視して斉を攻撃してきたため、斉王田広は激怒して?食其を釜茹での刑に処して、韓信の軍勢と戦うことになるが、斉軍は韓信に敗北し続けた。
そこで、項羽は援軍として将軍龍且と亜将周蘭が率いる20万人の大軍を送ったが、韓信の嚢沙の計
(水計)により龍且は灌嬰の軍勢に討ち取られ、周蘭は曹参に捕虜にされ、一気に20万人の軍も壊滅した。田広はたまらず逃げ出すものの捕まり、韓信によって処刑された。田横は田広の死を知ると斉王を名乗りしばらく抗戦を続けたが敗れ、彭越などの下を転々として最後は海上の島に逃れた。