斉_(春秋)
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紀元前11世紀 - 前379年
国姓姜姓呂氏
爵位侯爵
国都営丘
山東省?博市臨?区
分封者武王
始祖太公呂尚
滅亡原因田氏による簒奪
史書の記載1史記
春秋左氏伝
周朝諸侯国一覧
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姜斉(きょうせい、Ji?ng Qi、紀元前1046年 - 紀元前386年)は、代・春秋時代戦国時代初頭に亘って現在の山東省を中心に存在した斉国(諸侯)。周建国の功臣太公望によって立てられた国である。姓は姜、氏は呂であるため、戦国時代の斉(?斉・田斉)などと区別して姜斉または呂斉とも呼ばれる。紀元前386年に有力大夫の田和によって乗っ取られ、姜斉はこの時点で滅ぼされた。首都は営丘
歴史
太公望の受封国都臨?(現在の山東省?博市臨?區)の復原模型

斉の歴史は西周の初年まで遡る。武王牧野の戦いを破り、滅ぼすと[1]周朝を開き、功臣には領地を与え報いた[2]。先王の文王と武王の代に国師軍師として周を支えた功臣の呂尚(太公望)は営丘(後の臨?)に領地を与えられ[3][4]、国名を斉とした[2]姜姓のため姜姓斉国(姜斉)とも呼ばれる[5]。営丘に赴任後、呂尚は隣接する?の族長の攻撃を防いだ[5]。呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にした。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した[6][7][8][9]

斉の地位は諸侯の中でも崇高なものであった。武王が崩御すると後を継いだ成王が年少であったために叔父の周公旦執政した[10]。これを快く思わなかった、周公旦の兄弟の管叔鮮蔡叔度霍叔処は殷の紂王の子の武庚を擁立し反乱を起こした[9][10]。周公の東征(中国語版)により3年かけて鎮圧された[10]。これにより召公?を伝者として「東の海、西の黄河、南の穆陵関、北の無棣に至る地域の五の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与える」と周から命じられた[9][11]。斉は征伐する権限を得て、営丘に都を築き大国となった[9][12]。斉は隣国のと共に、周王朝の最も重要な諸侯国の1つであった。斉は周の軍事作戦で積極的に役割を果たした[13]

2008年から2010年にかけて、山東省高青県陳荘村で西周斉国の貴族の墓群が発掘されたが、18号墓からは「祖甲斉公」という銘文が記された青銅器が発見されている。この銘文は、十干諡号を用いているのが注目される。『史記』斉太公世家によると、斉の国君は2代目の丁公から4代目の癸公まで十干諡号を用いており、佐藤信弥は、これを初代斉侯の号であると主張した[14]
早期の歴史

周の康王の代、康王の所持している宝物を丁公の二代君主の康伯の二代君主晋侯燮周公旦の子伯禽に与えられた[15]

丁公から3代後[16]哀公は紀侯の讒言により周の夷王の命で烹殺にされる[17]。哀公の死後、異母弟の公子静が斉の君主となった(胡公)。前866年、胡公は紀(中国語版)からの防衛のために営丘から薄姑(臨?から西北に五十里の場所)に遷都した[17]。この暴動に斉の人民は怒った[17]。先代の哀公の同母弟の公子山が胡公を殺し、胡公の子を国外に追放した[18]。首都を薄姑から臨?に戻し[18]、即位した(献公[19]。献公の2代後[20][21]、孫のが君主となった[21]。詞は暴虐で国民は彼を恨んだ[22]。遂には胡公の子を斉に入国させ詞を殺した[22]。しかし、胡公の子は皆戦死した[22]。そのため斉人は詞の子の公子赤を擁立し即位させた(文公[22]。文公は父の詞の暗殺に関わった70人を全員殺した[22]
釐公の小伯春秋諸侯大国簡図

春秋時代の初期、斉は主にと争った。文公の3代後[23][24]釐公[注 1]が即位した。釐公は荘公隠公と盟を結んだ。両国からの援助を受けて、その後十数年間、僖公は他国と盟を結び宋を平定した[25]。斉は鄭と魯の盟で周朝の王命に従わない殤公?を平定した。を攻め許の荘公は衛に亡命した。そのため弟の桓公を許の君主とした。また宋の華父督(中国語版)の乱を平定した[26]前706年、斉に北戎が侵攻し、鄭の公子忽が救援し、撃破した[27][28]前702年、釐公は鄭の荘公の求めに応じ、衛とともに魯に侵攻し、郎で戦った[29]前699年、宋の要求により宋・衛・の三国で鄭を討伐した[30]。僖公の子の襄公の在位時に国力は更に強くなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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