斉_(劉予)
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曹王 劉予

皇帝
王朝斉
在位期間1130年9月9日 - 1137年
都城北京大名府→東平府→?京(東京開封府)
姓・諱劉予
字彦遊
生年1078年元豊元年)
没年1143年皇統3年)
母?氏
皇后銭氏
年号天会 : 1130年
阜昌 : 1131年- 1137年

劉 予(りゅう よ・劉 豫、?音:Liu Yu、元豊元年(1078年) - 皇統3年(1143年))は、中国北宋末の官僚傀儡国家(zh:??)の皇帝は彦遊。


目次

1 略歴

2 参考文献

3 伝記史料

4 脚注

5 関連項目


略歴

景州阜城(現在の河北省衡水市阜城県)の農民出身。元符年間(1098年 - 1100年)に進士科挙)に合格、宋朝に官僚として仕えた。1126年靖康の変により北宋女直族軍によって都開封を制圧され、滅亡する。劉予は知済南府に任命され、済南府を守備したが、1128年に金軍の侵入に対し、降伏する。

当時、金は山東河南方面に広く軍事行動を展開していたが、旧北宋支配下の漢族を直接統治する自信がなく、1127年に北宋の政治家であった張邦昌を皇帝として、金の傀儡国家としての「大楚」を建て、旧北宋の支配地域の間接統治にあたらせようとした。しかし、張邦昌は帝位につくとすぐに、北宋最後の皇帝欽宗の弟・趙構(高宗)を皇帝として宋(南宋)を再興することに協力し、自らは帝位を放棄して南宋に逃亡した。

そこで金は1129年3月、劉予を東平府へ移し、京東西淮南等路安撫使に任じて大名府・開州・徳州・濮州・浜州・博州・棣州・滄州などを支配させた。さらに1130年7月、粘没喝(完顔宗翰)の画策により、劉予を皇帝として傀儡国家を建てることとなり、国号を「大斉」、都を大名府とした。劉予は9月9日(1130年10月12日)に皇帝として即位したが、年号は金朝の正朔を奉じ、天会8年とした。百官を定めた後に東平府に移り、生母の?氏を皇太后、側室の銭氏[1]皇后となした。翌1131年には阜昌元年と改元し、子の劉麟を尚書左丞諸路兵馬大総管とする。翌年にはさらに陝西も封土に加えられ、都を?京(開封)に移す。尚書省六部を設け、徴兵を行い、十分の一税を施行、法律を定め銭の鋳造や交鈔の発行、各地に横行する匪賊の類いを丸ごと抱えこむ、科挙以外の官吏登用ルートを創設するなど意欲的な政策を行ったため、南宋から斉に赴き仕えたという例も出た。

金の元帥府使蕭慶が?京に赴き、劉予と南宋攻略の相談をした際には、劉予は宋軍の内情を詳らかに報告したり、宋軍の将軍の内応を図るなどの工作を行うが、劉予・劉麟父子は実戦面では全く活躍できず、かえって人心を失い、次第に金・宋戦争は膠着状態に陥ったため、金は劉予の存在価値を低くみるようになっていった。そこへ1137年に劉予の後ろ盾であった粘没喝が失脚したことで、斉不要論が圧倒した。同年、斉はわずか8年で廃止されることとなった。

劉予は蜀王に格下げされ、後に臨?府(内モンゴル自治区バイリン左旗)に移される。皇統3年(1143年)、曹王に封ぜられ、その年に没した。なお、斉の領土は、いったん金の支配下に入り、1139年には南宋に返還されたが、1142年紹興の和議で再び正式に金領に組み入れられた。
参考文献

『東洋歴史大辞典 下巻』(
1941年、縮刷復刻版、臨川書店ISBN 4653014728)1029ページ「劉豫」(執筆:松崎壽和)

『東洋史辞典』(京都大学文学部東洋史研究室、東京創元社1974年ISBN 4488003109)893ページ「劉予」

伝記史料

宋史 巻475 列伝第二百三十四 判臣上 劉豫伝

金史 巻77 列伝第十五 劉豫伝

脚注^ 趙金奴(宋の栄徳帝姫、欽宗の妹で高宗の姉)の侍女。礼法に習熟していた。靖康の変後、劉予に与えられた。

関連項目

靖康の変

関勝 (水滸伝)


更新日時:2016年7月28日(木)15:24
取得日時:2018/04/15 22:21


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