斉藤茂太
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さいとう しげた
斎藤 茂太
生誕
1916年3月21日
日本 東京
死没 (2006-11-20) 2006年11月20日(90歳没)
出身校昭和医学専門学校、慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程
職業医師、随筆家
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斎藤 茂太(さいとう しげた、1916年大正5年)3月21日 - 2006年平成18年)11月20日)は、日本精神科医随筆家。愛称はモタさん。
人物
生い立ち

1916年大正5年)、歌人で精神科医の斎藤茂吉の長男として東京市(当時)に生まれる。

青南小学校[1]、東京府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)を経て、1935年、松山高等学校 (旧制)を受験して失敗。明治大学文芸科を経て[2]1942年昭和17年)9月に昭和医学専門学校(現在の昭和大学)を卒業し[注 1]慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程にて医学博士号を取得。

1944年(昭和19年)に、大日本帝国陸軍の精神科病院である国府台陸軍病院に招集され、後に大日本帝国陸軍軍医大尉となる[3]
医師・作家

1942年(昭和17年)12月に、医師として斎藤病院に就任[4]。1973年(昭和48年)に、日本旅行作家協会を創立し、初代会長を務めた。1980年(昭和55年)4月に、日本精神病院協会(現在の日本精神科病院協会)名誉会長に就任[3]日本ペンクラブ理事、アルコール健康医学協会会長を務める傍ら、作家としても活躍し、多数の著書を出版した。
晩年

最晩年、米寿を越えた頃から足を悪くし、講演や旅行は減ったが、作家活動に時間を費やすようになり、それまで以上に多数の著書を世に出した。2006年平成18年)11月20日心不全で死去。90歳だった。生涯現役を続け、死去時にも多くの仕事を抱えていたという。青山霊園に墓がある。
逸話

父親の茂吉同様、中学生になっても寝小便をすることがあった。

少年時代より
アドルフ・ヒトラーの物まねが得意で、慶應義塾大学医学部の新年会での名物に、茂太がヒトラーに扮してドイツ語風の演説をやっていたという逸話がある。弟・北杜夫は兄にいつまでヒトラーの真似演説をしていたのかと尋ねると「今でもやってるよ」と返されたと自著で記している[5]

乗り物好き

旅行好きであるとともに、船舶・飛行機・汽車などの乗り物好きとして知られた。特に熱を入れていたのは飛行機であり、弟の杜夫が斎藤家の歴史に取材して執筆した長編小説『楡家の人びと』でも、彼をモデルとする人物が少年時代から飛行機に熱中している様が活写された。旅行や旅客機、客船についての著書も多く、旅客機の専門誌や機内誌にもしばしば登場していた。さらに日本航空ファーストクラスのテレビCMに出演した経験もある。

航空会社の旅行バッグの収集家としても世界的に有名であり、また自宅に小型飛行機で実際に使っていたプロペラや日本航空のファーストクラスの座席を飾っていた。息子の斎藤章二(現・斉藤病院院長)も著名な飛行機マニアであり、航空自衛隊の「ブルーインパルス」(T-4)の機体の塗装は公募で彼の作品が採用された。

アメリカに鹵獲・保存されていた旧日本海軍の大型飛行艇二式飛行艇(二式大艇)」の保存運動を、中心となって行ったことがある。茂太らの尽力もあり、今日世界でただ一艇のみの現存機が鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に保管(野外展示)されている。
「モタさんの"言葉"」

2012年(平成24年)からNHKワンセグ2で茂太の著作を絵本の読み聞かせの形式によって紹介するミニ番組『モタさんの"言葉"』の放送が開始された[6]
斎藤茂太賞

1973年に斎藤を会長として発足した日本旅行作家協会は、斎藤没後の2016年に、斎藤の「功績をたたえ、またその志を引き継ぐ」との趣旨で、旅にかかわる優れた著作を表彰する「斎藤茂太賞」を創設した[7]
著書(一部)

『茂吉の体臭』
岩波書店/1964年

『精神科の待合室』中央公論社/1974年

『躁と鬱 -波動に生きる-』中央公論新社/1980年6月


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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