さいとう きち
斎藤 きち
生誕1841年(天保12年)
日本 伊豆国賀茂郡下田坂下町
(現在の静岡県下田市)
死没1890年3月27日 (満48歳没)
日本 静岡県下田市稲生沢川
斎藤 きち(さいとう きち、 1841年〈天保12年〉[1] - 1890年〈明治23年〉5月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸妓。酌婦、髪結としても働いた。俗に唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。
来歴一説による出生地に作られた「唐人お吉出生地碑」(愛知県知多郡南知多町)
1841年(天保12年)、伊豆国賀茂郡下田の坂下町(現在の静岡県下田市)で出生(月日不詳)[1][注釈 1]。父・市兵衛、母・きわ、姉・もと、弟・惣五郎の家族がいたことが判明している[1]。船大工の父が没し生活が困窮したことから1847年(弘化4年)新田町の老婆せんの養女になる。1855年(安政元年)芸妓になる[注釈 2]。翌年養母せん没により実家に帰る[3]。
玉泉寺に駐留していたアメリカ合衆国駐日領事タウンゼント・ハリスは、長期間の船旅や遅々として進まない日本側との条約締結交渉のストレスも相まって体重が40ポンド(約18kg)も落ち、吐血するほど体調を崩していた。満52歳と当時としては高齢でもあり、ハリスの秘書兼通訳であるヘンリー・ヒュースケンが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。
日本側は男性の看護人を派遣することにしたが、ヒュースケンが自分とハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求した。下田奉行所はハリス側がいわゆる「妾」を要求しているものと判断し、方々に交渉した結果、ハリスに「きち」を、ヒュースケンに「ふく」を派遣することになった[4]。
「きち」は1857年(安政4年)5月22日ハリスが滞在する玉泉寺に籠で出向くが、3日後の5月25日に帰された。「町会所日記」には「きち」の体に腫物があるので帰されたとする記述があり、やがて正式に解雇された[5]。
実家に帰った「きち」は芸妓兼酌婦に戻って家計を支え、明治に入って斎藤姓を名乗り戸籍上の姓名は「斎藤きち」となった。
1868年(明治元年)に横浜で幼なじみの船大工・鶴松(のちに改名して川井又五郎)[注釈 3]と再会し、1871年(明治4年)に下田の大工町に転居して所帯を構えるが、当人の酒癖の悪さが原因で1874年(明治7年)に離別して姉の所へ戻った[7]。
1876年(明治9年)に三島の料理屋「かねや」の芸妓になり、1878年(明治11年)に下田で髪結いになった[7]。安直楼(静岡県下田市)
1882年(明治15年)に下田の大工町(現在の下田市三丁目)に小料理屋「安直楼」を開業するが、店は長くは続かなかった。その後、借家住まいになり三味線や踊りを教えて生計を立てた[7]。
1887年(明治20年)1月、長年の不養生の結果発病し、半身不随の後遺症が残った。養母・せんから相続した新田町の家も売却し、吉奈温泉に逗留して湯治する。健康を損ない財産も失い生活を支えることもできず、以降は近隣の知人にすがって細々と暮らした[7]。
1890年(明治23年)3月27日[注釈 4]、稲生沢川に転落して水死した[注釈 5]。行年48。遺体は河原に打ち上げられたまま誰にも引き取られず、これを憐れんだ地元の僧侶が遺体を収容し、自身が住職をつとめる下田の宝福寺[8]に埋葬した。
当初の戒名は「貞歓信女」だったが1925年(大正14年)に「宝海院妙満大師」と改めた[7]。転落した正確な場所は不詳だが、遺体発見の前に杖をついて門栗ヶ淵付近を歩く姿が目撃されていたことから、のちに観光資源化を目論んで門栗ヶ淵は「お吉ヶ淵」[9]と改名された[10]。
斎藤きちの経歴については、生誕から死没に至るまで諸説あり[11]、資料が少ない上に、後年の小説・戯曲・映画等で表現された薄幸で悲劇的なフィクションの世界の「唐人お吉」像が、忠臣蔵や八百屋お七の例にみられるように、さながら史実のごとく語られてしまっている可能性が高く、伝わる経歴の正誤を一概に断定する事は困難である。なお、当人の名前がフィクションの影響で「お吉」と表記されることが多いが、江戸期の下田奉行所の記録や町会所日記、明治期の戸籍上の当人の名前表記は平仮名で「きち」である。
史実に対する調査