文鮮明
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文鮮明 / ???
ムン・ソンミョン
1995年ワシントンD.C.にて
生誕1920年2月25日陰暦1月6日
日本統治下朝鮮 平安北道定州郡
死没 (2012-09-03) 2012年9月3日(92歳没)
韓国 京畿道加平郡
別名真のお父様、アボジ、アボニム
出身校早稲田高等工学校
職業宗教家
政治活動家
実業家
配偶者韓鶴子
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文鮮明
各種表記
ハングル:???
漢字:文鮮明
発音:ムン・ソンミョン
ローマ字:Mun Seong-myeong(2000年式
Mun S?ng-my?ng(MR式
英語表記:Moon Sun-myung
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文 鮮明(: ???、ぶん せんめい[1]、ムン・ソンミョン、1920年2月25日陰暦1月6日)- 2012年9月3日)は、韓国宗教家政治活動家実業家世界平和統一家庭連合(旧・世界基督教統一神霊協会。通称は統一教会、統一協会。以下便宜的に、統一教会と表記)、国際勝共連合を含む統一運動の創立者。妻は韓鶴子本貫は南平文氏[2]
来歴・人物

文鮮明は、統一教会の信者にとっては、地上に再来したメシア、第三のアダム、再臨の主であると考えられている。また、文と妻の韓鶴子は真の父母様と信者から呼ばれている[3]。しかし一方では、宗教的詐欺師であり、陰謀によって会員や元会員、その家族たちの人生を台無しにしてきた悪徳商人であると捉えている人々もいる[3]。一部のマスメディアは、「有名な韓国人伝道師」「問題の宗教的指導者」「何万もの求道者を洗脳したカルトの人形使い」と評した[3]。宗教学者のダグラス・E・コーワン(英語版)、宗教社会学者のデイヴィッド・G・ブロムリー(英語版) は、「どのように描写されているかは別として、20世紀後半の最も目立った新宗教の指導者の1人である」と評した[4]

1920年1月6日日本統治下平安北道定州郡(現在の北朝鮮平安北道定州市)で出生した[5][6]。出生名は「文龍明」。

曽祖父の代まで裕福な儒教家門だったが、15歳の時に兄弟が精神病を患い、それをきっかけに家族全員がプロテスタントの一派長老派キリスト教徒となる[7][5]。16歳の時に、祈祷中にイエス・キリストと霊通し、再臨主の使命を継承するよう召命を受け、最初は拒んだが、最終的に受け入れたという[7][5]。さらに聖書を学び、祈りを唱えるうちに、さらなる啓示を受けたとされている[7]。文は正式に神学を学んではいないが、書堂で中国の古典を学び、仏教やその他の宗教に親しんだ[7]

1934年4月、雲龍学院から定州私立五山普通学校に編入。この学校は三・一独立運動で独立宣言書に署名した33名の抗日運動指導者の1人であった李昇薫が設立した学校であり、日本統治下でありながら日本語を教えていなかった。教会の長老であった文慶天(いとこの文昇龍の父親)の勧めで、病気を治すため、文一家は教会に通うようになり、全員がキリスト教に改宗。次姉(文孝淳)と長兄(文龍壽)の精神病が按手祈疇を通して治癒したことから、「猫頭山」(標高310m)のふもとにある「徳興長老教会」に入教した[8]

1935年4月、定州公立普通学校に転入。私立京城商工実務学校電気科(現・中央大学)に入学[注 1]。同年4月17日、定州の「猫頭山」において[10]イエス・キリストと出会った。文によれば、キリストはヘブライ語なまり韓国語[11][12]「メシアとして果たせなかった使命を果たしてほしい」と頼んだという。文はその責任の重さゆえに何度も断ったが、最終的に受け入れたとされる[13][14]

1938年、定州公立普通学校卒業。卒業式では警察署長や郡守たちを前に「日本人はふろしきをまとめて出て行け」と演説を行い、地元の警察に「要注意人物」とされた[15][16]

18歳の時に京城(現・ソウル特別市)の京城商工実務学校電気科に通い、電気工学を学んだ[17][18]。在学中から(創氏改名に先行して)「江本」姓を名乗る。学生時代、ソウルの鍾路三街へ遊郭通いをする[注 2]

イエス教会の所属教会である明水台教会に通った[5]。イエス教会とは、李龍道がイエスの親臨を主張する柳明花を通して得た啓示に従って、1933年6月に設立したもので、李は同年10月に死去した[5]。よって両者に面識はない。文は同教会の講師を務め、イエス教会のリーダー許孝彬とも面会し、文の初婚時には許孝彬が主礼を引き受けるなど親しい関係となった[5]。文はここで、「神の摂理」と「究極の真理」を会得したと語っており、李龍道を思想的なルーツであるとしている[5]

1930年代後半、李龍道の弟子である李浩彬の「(ソウル)新イエス教会明水台教会」に通う。黒石洞に下宿。早稲田高等工学校在学中の文鮮明

1941年3月31日、日本留学のため京城を離れる、その動機として文は「大韓民国の日本統治下において、誰よりも愛国者としての道を知らなければなりませんでした」としている。京釜線急行「ひかり」釜山に向かう。1941年4月1日、関釜連絡船に乗船、「怨讐の国」の地を踏む[20][16]


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