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『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代の南朝梁の蕭統(昭明太子)によって編纂された詩集・文集。春秋戦国時代から当時までの文学者131名による800余の作品を、37のジャンルに分類して収録し、蕭統が自ら序文を書いている。全30巻。 『文選』の撰者である蕭統の父は、南朝梁の皇帝蕭衍である。蕭衍は南朝斉の宗室の出身であり、学問・文才にも長じ、即位前は竟陵王蕭子良のもとで、沈約・謝?ら当時を代表する文学仲間である「竟陵八友」の一人に数えられていた。蕭統は父やその周囲の影響で学問・文学を好み、太子である蕭統の東宮には約3万巻の書籍が集められた。こうして、蕭統の下へも多数の学者・文人たちが集うこととなった。 形式上は『文選』の撰者は蕭統一人に擬されているが、実際の編纂には劉孝綽ら彼の周囲にいた文人たちが関わったと考えられており、例えば、空海の『文鏡秘府論』南巻には「南朝梁の蕭統の劉孝綽等と『文選』を撰集するが如きに至りては、自ら謂へらく『天地を畢くし、諸を日月に懸く』と」とある。 隋唐 『文選』の注釈として文献上最も古いものは、隋の蕭該
成立の背景
後世における受容と注釈
曹憲の弟子の一人である李善は、浩瀚な知識を生かして『文選』に詳細な注釈をつけ、658年(顕慶3年)、唐の高宗に献呈した。これが『文選』注として最も代表的な「李善注」である。李善注の特徴は、過去の典籍を引証することで、作品に用いられている言葉の出典とその語義を明らかにするという方法を用いていることにある。また李善が引用する書籍には現在では散佚しているものも多く、それらの書籍の実態を考証する際の貴重な資料にもなっている。
李善注の後の代表的な注釈としては、呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰の5人の学者が共同で執筆し、718年(開元6年)、唐の玄宗に献呈された、いわゆる「五臣注」がある。五臣注の特徴は、李善注が引証に重きを置きすぎるあまり、時として語義の解釈がおろそかになる(「事を釈きて意を忘る」)ことに不満を持ち、字句の意味をほかの言葉で解釈する訓詁の方法を採用したことにある。そのため注釈として李善注とは異なる価値があるが、全体的に杜撰な解釈や誤りが多く、後世の評価では李善注に及ばないというのが一般的である。
宋代に入り木版印刷技術が普及すると、李善注と五臣注を合刻して出版した「六臣注」(「六家注」)が通行し[3]、元来の李善・五臣の単注本は廃れることとなった。現行の李善単注本は、南宋の尤袤が六臣注から李善注の部分を抜き出し(異説あり)、1181年(淳熙8年)に刊行したものの系統であるとされる。