この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "文藝春秋" 雑誌
文藝春秋
1964年10月号
刊行頻度月刊
発売国 日本
言語日本語
出版社文藝春秋
刊行期間1923年1月 - 現在
発行部数552,417[1]部(2012年10月 - 2013年9月)
ウェブサイトhttps://bunshun.jp/list/magazine/gekkan-bunshun
テンプレートを表示
『文藝春秋』(ぶんげいしゅんじゅう)は、株式会社文藝春秋が発行する月刊雑誌(総合誌)である。
概要1964年3月特別号の新聞広告
1923年(大正12年)1月、菊池寛が私財を投じて創刊した[2]。実際の発売は前年の暮れである。
価格は1部10銭、部数は3000部、発売元は春陽堂であった。誌名の由来は菊池が『新潮』で連載していた文芸時評のタイトルから来ている。その後、関東大震災の影響で印刷済みの同年9月号が焼失したため休刊となったものの、順調に部数を伸ばした。また「座談会」という言葉を初めて用いた。1930年代には、文芸雑誌から総合雑誌へと、性格を変えた。また、芥川賞受賞作の掲載誌としても権威を高めた。
敗戦占領期には、菊池が戦争責任を問われ公職追放となり、一時廃刊の危機にあったが、池島信平・鷲尾洋三が編集長となり佐々木茂索を社長として「文藝春秋新社」として再発足。
毎月10日発売(発行日は1日)。判型はA5判、ページ数は通常は約450ページ。目次は折り畳み式。カバージャンルは政治、経済、経営、社会、歴史、芸能、軍事、皇室、教育、医療、スポーツと多岐に及んでいる。政治家、研究者、実業家、ジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家による論文や記事が、毎号三十本ほど掲載される。日本国外でも在外日本人や知日派外国人などを中心に定期購読者を持つ。
創刊時は倉田百三、島田清次郎などの女学生に人気のあった作家のゴシップを掲載する記事も多く見られた。1970年代前半までは菊池寛時代の名残から作家の人物批評やゴシップ記事が何度も取り上げられたことがあったが、1980年代に入ると出版社の肥大化によって商業主義的色彩を強めざるをえなくなりこうした記事は一切見られなくなった。近頃は読者層の高齢化に合わせてか、団塊の世代が好む昭和史回想などを組むことが多い。2021年時点では「読者の中心は50代から80代」と公称している[3]。
複数の文学賞を主催・運営しており、2月号で文藝春秋読者賞、3月号と9月号で芥川賞、6月号で大宅壮一ノンフィクション賞、7月号で松本清張賞、12月号で菊池寛賞の受賞者が発表される。
特に芥川賞の時は、販売部数が大きく増大する。受賞作として20代になったばかりの金原ひとみ『蛇にピアス』や綿矢りさ『蹴りたい背中』を掲載した2004年3月号、ピース・又吉直樹『火花』と羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』を掲載した2015年9月特別号は、それぞれ100万部を超える記録的な発行部数となった。
書店や売店で掲示する最新号の宣伝広告は、黒と朱色の2色刷で、2018年(平成30年)までは文字が全て手書きの毛筆であった。
文藝春秋の看板出版物であることから、社内では「本誌」と通称されている。 保守的な論調を基調としているため[4]、日本共産党、社会民主党など左派政党には批判的な立場を取り、非時事コラムでもこれらの政党政治家の文章はあまり掲載はされない[注釈 1]。しかし、瀬戸内寂聴、澤地久枝、坂本龍一、森村誠一など左派系の作家・進歩的文化人(九条の会賛同者)の寄稿が掲載されることは珍しくない。 号数部数備考出典 「国民雑誌」と評されることがあり[8]、毎日新聞社実施の『全国読書世論調査』「買って読む」「いつも読む」の両方で1950年(昭和25年)、1951年(昭和26年)以後「群を抜いている」[8]。
論調
発行部数上位の号
2004年3月号118万5000部金原ひとみ『蛇にピアス』、綿矢りさ『蹴りたい背中』を掲載 [5]
2015年9月特別号110万3000部又吉直樹『火花』、羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』を掲載
特装版[注釈 2]5万3000部を含む
電子雑誌版も1万ダウンロードを突破[6]
1990年12月号105万部『昭和天皇独白録』を掲載[5][7]
1976年9月号100万部村上龍『限りなく透明に近いブルー』を掲載[7]
1977年9月号100万部三田誠広『僕って何
国民雑誌