文治地震
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西暦換算に関する注意

1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。

詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。

文治地震
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本震
発生日グレゴリオ暦1185年8月13日
震央.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度00分 東経135度48分 / 北緯35.0度 東経135.8度 / 35.0; 135.8座標: 北緯35度00分 東経135度48分 / 北緯35.0度 東経135.8度 / 35.0; 135.8[1][注 1]
規模   M7.4
被害
死傷者数死者多数
被害地域近江・山城・大和

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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文治地震(ぶんじじしん)は、元暦2年7月9日刻(ユリウス暦1185年8月6日12時(正午)ごろ、先発グレゴリオ暦1185年8月13日)に日本で発生した大地震である。

地震は元暦年間に発生したが、この天変地異により、翌月の8月14日文治改元されたことから、一般には、元暦ではなく文治を冠して呼ばれることが多い。この改元について『百錬抄』では「十四日甲子、有改元、依地震也、(地震による)」と記述しているが、異説もあり、『一代要記』には「八月十四日改元、依兵革也、」とあり兵革によるともされる[2]。しかし中世の日本においては合戦政変によるものより、地震疫病流行など自然現象のもたらす災害による改元の方が多かった[3]

この地震に関する古記録は当時の都や政治の中心地であった京都鎌倉における文書にほぼ限られており断片的な記録しか有しない歴史地震であるため、その震源域については諸説ある。
地震の記録

文治地震は壇ノ浦の戦いの約4ヶ月後に発生し、『平家物語』や『方丈記』にその記述が見られ、『平家物語』には「この度の地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、平家怨霊にて、世のうすべきよし申あへり、」と記されている。また『玉葉』、『醍醐雑事記』、『歴代皇紀』、『吉記』、『山槐記』、『百錬抄』、『園太暦』、『康富記』、『一代要記』、『愚管抄』など京都で記された記録が多く、『吾妻鏡』のように鎌倉で記された記録も存在するが、これも京都の状況を記載したものであった[4]

京都の震害が著しく、『醍醐雑事記』には白河辺りの諸御願寺や京中の殿屋などで九重塔や九輪などが大破した様子が記される。『吉記』には白河の法勝寺で金堂廻廓、鐘楼阿弥陀堂および九重塔などが破損した被害が記述されている[5]。その他、東寺では破損した鐘楼を文治3年(1187年)に修理した記録や『仁和寺御伝』による六条殿、一字金輪、於院御所の修理の記録がある[4]

『山槐記』によれば閑院の皇居が破損、近江湖(琵琶湖)の湖水が北流して湖岸が干上がり後日旧に復し、宇治橋が落下して渡っていた十余人が川に落ちて1人が溺死、また民家の倒壊が多く、門や築垣は東西面のものが特に倒壊し、南北面のものは頗る残ったという[4][6]法勝寺九重塔は倒壊には至らなかったものの、「垂木以上皆地に落ち、毎層柱扉連子相残らる」(『山槐記』)という大破状況であった。同書はその後の余震が続いたことを詳細に記録し、さらに、琵琶湖でも一時的に水位が下がったことなどを記す[7]

唐招提寺では千手観音の足柄墨書修理銘に文治元年7月の地動によって転倒したものを9月20日に修理したとあり、大和における被害とされる[4]。『興福寺略年代記』にも「元暦二年七月九日、大地震、処々多顛倒」の記述がある。

比叡山では延暦寺根本中堂の輪灯が悉く消滅し、戒壇八足門、看衣堂、四面廻廊、中堂廻廊など諸建物が転倒するなどの被害が出た(『園太暦』)[6]

近江では大津三井寺において金堂廻廊が転倒したことが『山槐記』に記され、田3が地裂け淵になったという。遠国においても被害が発生し津波があったともいう[8]

この地震は美濃伯耆三河でも有感であったとされる[6]。『山槐記』には「又自美濃伯耆等國來之輩曰、非殊之大動、」とある。
前震・余震

元暦2年6月20日夜時(ユリウス暦1185年7月18日24時頃)にも大地震があり、翌日も3回、翌々日も揺れ続いたという。『玉葉』、『醍醐雑事記』などの記録にあり、鎌倉で記された『吾妻鏡』にも記録があることから京都および鎌倉の間で大地震が発生した可能性もあるが、各記録を総合すると『吾妻鏡』の編纂者は京都の地震記録を記載した可能性が高いとされる[4]

『山槐記』では7月の本震以降、9月末までの京都における余震の記録が日記形式で綴られ、翌7月10日および11日は数十度、12日は二十余度、その後も連日の様に数度の地震が記録されているが10月以降は記録が中断し記事を欠いている。特に8月12日刻(ユリウス暦1185年9月7日16時頃)の余震は「其勢猛」と述べている[4]。『玉葉』によれば、8月12日の余震によって少々の転倒があったという。
震源域

河角廣はMK = 5としてマグニチュード M = 7.4を与えていた[9]が、これは京都、近江および大和付近など限られた被害記録しか考慮しておらず、また宇佐美(2003)も記録の存在する震害の中心である北緯35.0°、東経135.8°を一応の震央とするとしている[6]

記録が畿内付近のものにほぼ限られており、この地震の全体像が明らかでないため、震源域には琵琶湖西岸断層帯活動説[10][11][12]南海トラフ巨大地震[13]、その他諸説がある。


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