文武学校
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文武学校

文武学校(ぶんぶがっこう)は、江戸時代後期に創設された信濃国松代藩藩校である。明治時代初期に廃止されたが、藩校の建物は昭和期まで学校として使用されていた。日本全国約250中の藩校でも、建設当時から建造物や藩校敷地がそのまま残っている。

現在、長野市によって公開されている。
歴史

第6代藩主真田幸弘のとき、江戸から菊池南陽を招いたことから、松代藩での藩士の教育が始まる。時が下り、第8代藩主真田幸貫が清須町の喰違御用屋敷手狭につき、学舎建設の計画を立てていたとき、佐久間象山は藩家老矢沢監物に「学制意見書及学堂規則」を提出、幸貫はすでにあった水戸弘道館を参考にするため、儒官林梁をして藤田東湖から組織、経営方法を聞くよう命令。幸貫は東湖からの詳細な返事を経て建設を決意し、総奉行に鎌原貫唯、奉行に菅沼正身、長谷川昭道に任じ、喰違御用屋敷に藩士の金井美濃輔の屋敷を併せ地割棟梁などを手配し着手するが、幸貫は逝去、第9代藩主幸教が遺志を受け継ぎ、完成。安政2年(1855年)に開校した。総敷地3089m2(934坪) 建坪1500m2(455坪)廃藩に伴い、明治6年以降、初等教育の場として昭和40年代まで使われる。1953年に国の史跡に指定され、松代小学校が隣接地に移転、その後復元工事が行われ、長野市によって公開されている。
前史

1758年(宝暦8年) 江戸から菊池南陽を招いて松代伊勢町の御使者屋敷(文学館とも称す)や松代殿町の稽古所で経書を講義する。宝暦11・13年と2-3か月松代に滞在し、経書の講義をする。

1789年(寛政元年) 南陽の高弟岡野石城が儒官となり再開され毎月1、6日に論語の講義をした。講義はその都度、城内の大書院や御用部屋が使われた。岡野石城出府につき、代わりに窪田馬陵が毎月4、7日に古文孝経を家老の根津神平屋敷にて講義した。また、善光寺村の藤井藤四郎が文学館講師を命ぜられ、城内大書院にて経書詩文を講義した。

1806年(文化3年) 稽古所が焼失し、清須町の喰御用屋敷が学問所とされる。

1807年(文化4年) 第7代藩主真田幸専のとき、藩士の西沢貞政と金井晟が助教に任じられ、清須町喰違御用屋敷にて儒教を講義した。

1812年(文化9年) 江戸藩邸において幕府儒官林述斎の門人林単山が教授となり、月次講釈を始める。

1822年(文政5年) 西沢貞政死去に伴い、西沢丈左衛門が後任となり、清洲町の御用屋敷にて孟子を講義する。文政年中 宮下有常が儒官となり、経書を講義した。宮下に代わり、長野豊山が儒官となり、毎月27日を定日とし、城内表書院において孟子を講義する。

1835年(天保6年) 佐久間象山が御城月並講釈助を命じられる。

沿革

1837年(天保8年) 第8代藩主幸貫が清須町の喰違御用屋敷手狭につき、学舎建設の計画を立てる。

1844年(弘化元年) 竹内錫命儒官となる。

1852年(嘉永5年) 江戸藩邸に文武舎を設ける。

1854年(安政元年) 7月までに諸棟を完成させる(松代清須町)。しかし、城内花の丸御殿が焼失したため、急遽、学校が仮の役所とされる。

1855年(安政2年) 花の丸御殿の再建に伴い、開校式が行われる。

1868年(明治元年) 第10代藩主幸民のとき、文武学校手狭につき一時、長国寺に兵制士官学校を設け、総督に岩崎玄蕃、教官として武田斐三郎を招き洋書やフランス兵制を講義する。

1869年(明治2年) 文武学校を藩学校に改める。

1870年(明治3年) 藩内に松代騒動が起こり、兵制士官学校閉校。

1872年(明治5年) 藩学校内に新たに西洋兵学寮士官学校を設け、洋学とフランス式訓練を行う。廃藩につき半年あまりで閉校。

1873年(明治6年) 長国寺火災に伴い、槍術所を庫裏として移築。旧藩学校に第54番小学松代学校創設。

1879年(明治12年) 第19番松代学校と改める。

1882年(明治15年) 第18番学区松代学校と改める。

1885年(明治18年) 松代尋常小学校と改める。

1887年(明治20年) 松代町立松代尋常小学校となる。

1892年(明治25年) 松代町立松代尋常高等小学校付設。その後、松代小学校となり校舎として長く使用される。

1953年(昭和28年) 史跡に指定される。

1973年(昭和48年) 復元修理工事が行われる。

1978年(昭和53年) 工事が完成し、松代藩文武学校として一般に公開される。

1996年(平成8年) 長国寺に庫裏として移築されていた槍術所が元の位置に再度移転、復元された。

建物

文学所(正堂)
漢学兵学、躾方(小笠原流

東序(教室) 漢方医学西洋医学蘭学

西序(教室) 西洋砲術

文庫蔵

剣術所

柔術所

槍術所

弓術所

御役所

番所

総敷地3089m2(934坪)、建坪1500m2(455坪)。建築当初からの建造物はすべて現存する。
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