文武両道
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文武両道(ぶんぶりょうどう)とは、文事と武事、学芸武芸、その両道に努め、優れていることを指す語。求道的な評価にも用いられる語である。変わって、現代では勉学と運動(スポーツの両面に優れた人物に対しても用いられる。

平家物語』には、「あっぱれ、文武二道の達者かな」とあり、文武二道(文武一道とは異なる)という語がある。この語は、近世においても用いられている(朋誠堂喜三二著『文武二道万石通』など)。
『史記』の記述

「文事ある者は必ず武備あり」という言葉が『史記』には記されている。文武は一方に偏ってはならないという意味である。いつ頃日本に伝来したかは不明だが、文武という語自体は、日本でも古代から用いられている。(文武天皇など)また、「入りては相、出でては将」と言う言葉も儒教には存在する。「文」とは古代中国律令制の官職で、文官、「武」とは武官に由来すると考えられる。文官は事務役人など頭を使う職業、武官は近衛隊門番など体を使う職業であった。このことから、精神肉体どちらをも秀でた者を指す語になったと思われる。
中世における文武社会

中世における文武の文とは、和歌といったものを意味していることが多く、必ずしも学問に限ったものではなかった。太田道灌は、和歌にも長けていたため、文においても長けていたことが後世に伝えられる(『耳袋』など)。戦国時代後期では、茶道も武家にとっては文事に当たった。また宮本武蔵のように絵画や書に通じた者も、含まれることがある。中世社会において、文武二道を体現できたのは武家に限らず、僧兵(武僧)や貴族といった者達も含まれる。

平安時代から鎌倉時代へと移ると、日本では武家政権が確立したこともあり、文武を組み合わせた文化も生じるようになる。例えば、国宝の馬具である「時雨螺鈿鞍」(13世紀作)は、様々な装飾と文字をはめ込み、その主題は『新古今和歌集』の恋歌「わが恋は 松を時雨の 染めかねて 真葛が原に 風騒ぐなり」である。
近世における文武両道の風潮

徳川家康が文事を奨励した影響から全国の学者の社会的地位が見直され、学者に対する需要が生み出された。この風潮から文武両道という語は世に行われ、武家や農夫が修養のために学問の道に入り、大成する者が増えた。ただし、一部の層は、学問を道楽とみていたし、百姓や町人などは、自分の子が学問にのめり込み過ぎて、身分的本業を離れているのをよしとはせず、ある程度成長したら勉学から離れさせる世代もあった。近世日本では、こうした職業的、社会的な風潮もあったと言われる。江戸時代の学問は時に限定されることがあり、決して広いとはいえなかったものの、学者が増加し諸学の研究が進んだ時代でもあった。また様々な学問で諸派の分裂が起きた時代でもあった。また中世の時代から引き続いている要素として文は教養や道楽としての地位を保っており、学問だけではない部分でも文の要素が存在していた。
近世の学者による見解と見解

近世において、文武両道という語が確立していた。以下は近世の学者による見解である。

中江藤樹:「文と武は元来一であって、分かつことができない。したがって、武なき文、文なき武は共に真実の文ではなく、武でもない」

貝原益軒:「武芸の直接の目的は、戦場の使、日常の使にあるが、究極の目的は、武徳の涵養(かんよう)にある。すなわち武芸により、心身を統治することである」
近代日本における文武両道


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