文書仮説
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文書仮説(もんじょかせつ、ぶんしょかせつ、: Documentary hypothesis, : Urkundenhypothese)とは、モーセ五書旧約聖書のうちの最初の5文書)は、元々それぞれ独立・完結している諸文書をのちに編者が組み合わせることによって、現在見るような形として成立したとする説である。
概要

一人の人間(モーセ)によって書かれたとする、ユダヤ教キリスト教の古代以来の伝統的理解と対立する。元の諸文書の数は4種と想定されることが多いが、文書の数はこの仮説の本質的部分ではない。

この仮説は、18?19世紀に、聖書の矛盾点を整合化する試みから発展したものである。19世紀末までには、4種の原資料があり、これを編者集団 (R) が編纂したという、大体の意見の一致に至った。この4種の原資料は J(ヤハウィスト資料)、E(エロヒスト資料)、D(申命記史家)、P(祭司資料)として知られる。

ドイツの神学者にして聖書学者ユリウス・ヴェルハウゼン(1844?1918)の研究は特に重要で、彼はこの4種の原資料の成立年代順序を JEDP と推定し、祭司の権力が増大していくという、ひとつの一貫したイスラエル宗教発展史を設定した。ヴェルハウゼンのモデルでは、この四資料は次のような出自を持つと考えられる。

J - Jahwist(ヤハウィスト)の略。紀元前950年頃にユダ王国で書かれた。

E - Elohist(エロヒスト)の略。紀元前850年頃に北イスラエル王国で書かれた。

D - Deuteronomium(申命記)の略。紀元前7世紀のユダ王国の宗教改革時に書かれた。

P - Priesterschrift(祭司資料)の略。紀元前550年頃のバビロン捕囚以降に書かれた。

この仮説を塗り替えようとする様々な新しいモデルが(特に20世紀後半以降)提案されつづけているが、これらの考え方や術語は、新しい諸理論になお、基本的枠組みを提供し続けている。
ヴェルハウゼン以前

「律法」(モーセ五書)自体にも、また他の旧約文書を含む早い段階のユダヤ教文書にも、「律法」の著者に関する直截的言及はなく、こういった文書の匿名性は古代オリエントでは極めて当然のことであった。ユダヤ教が、作者性を重んじるギリシア=ローマ文明に接触する時代になって初めて、ヨベル書に見られるように、「律法」の著者をモーセに帰する記述が現れる。

中世やルネサンス期においては、モーセを著者とみなす見解は極めて広く支配的となり、懐疑的な意見はわずかに見出せるだけであるが、17世紀に入ると、より綿密な考査が行われ始める。トマス・ホッブズは『リヴァイアサン』33章において、申命記34章6節(モーセの死の記述)、民数記21章14節(民数記より古い時代の本に、モーセの業績に関する記述がある)、創世記12章6節(執筆時に、もはやカナン人がいないことを示唆する記述)等を引用して、これらのいずれもがモーセによるものではないと結論している。他に、イザーク・ラ・ペレール(英語版)、バールーフ・デ・スピノザ、リシャール・シモン(英語版)、ジョン・ハムデンなども同じ結論に至ったが、彼らの著作は発禁となったり、中には幽閉され発言を撤回させられたものもおり、またスピノザなどは殺されそうになりさえした[1]

1753年、フランスの医学者ジャン・アストリュク(英語版)が匿名で『モーセが創世記を書くにあたって利用したと思われる原典についての推論』を発表した。ホッブスやスピノザの仕事を「前世紀の病」と呼んだように、アストリュクの目的は彼らへの反駁であった。アストリュックは、すでに学者たちがイーリアスのような古典文学に対して使っていた、様々のヴァリアントを篩にかけ、もっともオリジナルの近いテキストにたどりつくための分析法を、創世記に用いてみた。まず、矛盾ない一繋がりのテキストを特定できると思われる二つのマーカーを見分けることから始めた。このマーカーとは、「ヤハウェ」と「エロヒム」という神名、それから重複する記事である。後者は、たとえば二つの世界創世神話(1章と2-3章)、サラを人妻と知らず迎え入れる人々の話(12章と20章)などである。それからこれらの章節を、異なるカラムに分けた。「エロヒム」の節はあるカラムに、「ヤハウェ」の節は次のカラムに、それとは別に重複する記事はまたそれぞれのカラムにといった具合に。この並行するカラムは、同じ出来事に言及したそれぞれ二つの長い物語を含みつつ、構成されていた。アストリュックは、これらがモーセが使っていたオリジナルの文書であり、モーセによって書かれた創世記もこのようなもので、並行する記事はそれぞれ別に読まれていたことを意味するのではないか、と提唱するに至った。そして、後世の編纂者が、この二つのカラムを一つの物語に編集し、それによってホッブスやスピノザが指摘した矛盾や重複が生まれたのではないかと考えた[2]

アストリュックが史料批判のために用いた方法論は、続く学者たち、特にドイツ人学者によって大いに発達した。ヨーハン・ゴットフリート・アイヒホルン(英語版)は1780年以降、モーセ五書全体にこの分析を拡張させ、1823年までに、モーセはいずれの文書にも関与していないという結論に至った。1805年、ヴィルヘルム・デ・ヴェッテ(英語版)は、申命記は第三の独立した資料であると結論した。1822年ごろ、ヘルマン・フプェルト(英語版)はエロヒスト資料が二つの資料からなり、二つを分離すべきであると提唱した。このもう一つの資料が祭司資料である。フプェルトはまた、四種の資料からモーセ五書を編んだ(最終的な)編集者の重要性も強調している。モーセ五書の全てがこの四資料に帰されるわけではなく、それ以外の出自を持つと思われる小さな箇所もおびただしく存在すると考えた。たとえば、レビ記の17章?23章には神聖法典が含まれている[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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