文帝 元宝炬
西魏
初代皇帝
王朝西魏
在位期間大統元年1月1日 - 大統17年3月6日
(535年2月18日 - 551年3月28日)
都城長安
姓・諱元宝炬
諡号文皇帝
生年正始4年(507年)
没年大統17年3月6日
(551年3月28日)
父元愉
母楊奥妃
后妃乙弗皇后
郁久閭皇后
陵墓永陵
年号大統 : 535年 - 551年
文帝(ぶんてい)は、北朝西魏の初代皇帝。姓は元、諱は宝炬(ほうきょ)。北魏の京兆王元愉の三男。 北魏の永平元年(508年)に父が冀州で反乱を起こして敗死したため、元宝炬は兄弟たちとともに宗正寺に幽閉された。宣武帝が崩御すると、幽閉を解かれた。正光年間に直閤将軍の号を受けた。孝明帝とともに霊太后の寵男たちを殺害しようと謀ったが、事が漏れて失敗し免官された。武泰元年(528年)に邵県侯、永安3年(530年)に南陽王に封じられた。太昌元年(532年)5月に太尉に上ったが、6月に事件に連座して驃騎大将軍に降格され、王邸に蟄居させられた。7月、再び太尉となった。永熙2年(533年)3月に尚書令・太保に転じ、永熙3年(534年)には中軍四面大都督に昇進した。孝武帝が宇文泰を頼って長安へ逃れると、元宝炬は孝武帝に従って入関し、太宰・録尚書事に任じられた。 永熙3年(534年)末に孝武帝が宇文泰に毒殺されると、翌535年1月に宇文泰に擁立されて即位し、元号も大統と改めた。洛陽では既に高歓が文帝の従甥にあたる元善見(孝静帝)を擁立しており、以後は文帝の西魏と孝静帝の東魏が並立する状況となった。しかしどちらの皇帝も傀儡であり、西魏では宇文泰が、東魏では高歓がそれぞれ実権を握っていた。 文帝の治世は、当初荊州を東魏の侯景に奪われ、宇文泰の旧本拠であった夏州を失陥するなど、国力の弱体から軍事面での不利が続いた。大統2年(536年)頃には関中に飢饉が起こり、多くの死者を出す惨状を呈した。建国当初の危機は、大統3年(537年)に宇文泰が沙苑の戦いで高歓を破ったあたりから克服の兆しを見せ始めた。一時は旧都洛陽を奪うなどの善戦をみせ、西魏と東魏の戦線は次第に膠着していった。 大統13年(547年)には侯景の降伏を受け入れて河南大行台に任じたが、その年のうちにまた離反された。 拓跋部 (1)拓跋毛
生涯
即位前
即位後
『魏書』巻1?巻22、『北史』巻5・巻14を元に作成。
(13)拓跋鄰