凡例文室 浄三
文室浄三(『前賢故実』より)
時代飛鳥時代 - 奈良時代
生誕持統天皇7年(693年)
死没宝亀元年10月9日(770年10月31日)
改名智努王→文室智努→文室浄三
官位従二位・大納言
主君元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇
氏族文室真人
父母父:長皇子
兄弟河内王、栗栖王、浄三、石川王、
長田王、大市、奈良王、茅沼王、
阿刀王、広瀬女王、智努女王ら
妻茨田女王
子沢王、文室与伎、文室真屋麻呂、三諸大原、文室長谷
文室 浄三(ふんや の きよみ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族・公卿。初名は智努王(ちぬおう、知努王・珍努王・茅野王と表記した文献もある)。天武天皇の孫。一品・長親王の子。 霊亀3年(717年)無位から従四位下に直叙され、翌養老2年(718年)大舎人頭に任ぜられる。神亀6年(729年)長屋王の変の直後に従四位上に昇叙する。 天平13年(741年)9月に巨勢奈?麻呂と共に恭仁京の造宮卿に任じられ、同月には民部卿・藤原仲麻呂と共に恭仁京の人民に宅地を分け与えている[2]。翌天平14年(742年)正月に開催された宴において、造宮の功労により東?60疋・真綿300疋を賜与されると[3]、同年8月今度は紫香楽宮の造離宮司に任ぜられた。この間、天平12年(740年)正四位下、天平18年(746年)正四位上、天平19年(747年)には従三位に昇進して公卿に列しており、聖武朝の後半に昇進を果たしている。仏足石(国宝、薬師寺所蔵) 孝謙朝に入ると、天平勝宝4年(752年)に文室真人を賜姓されて臣籍に降り、文室 智努(ふんやのちぬ)を名乗る。その理由は皇位を自ら放棄することによって保身を確実にするためと見られるが、60歳直前というこの高齢期になった理由ははっきりしない。一説では妻・茨田女王の卒去をその契機とする[4]。翌天平勝宝5年(753年)には茨田女王の追善供養のために仏足石を造立、これは現在も薬師寺に伝わり国宝に指定されている。天平勝宝6年(754年)摂津大夫を経て、天平勝宝9歳(757年)参議兼治部卿に任官する。また同年の道祖王の廃太子に伴う新皇太子選定においては、左大弁・大伴古麻呂と共に池田王を推している[5]が、結局皇太子に冊立されたのは池田王の弟である大炊王(のち淳仁天皇)だった。 天平宝字3年(759年)諸官人や師位の僧らに対して政治に対する意見が求められた際(意見封事)、少僧都・慈訓と共に以下の意見を述べて認められている[6]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} 諸寺では毎年正月に悔過を行っているが、朝廷からの供物について、寺院に入ったこともない者が得ようと計画したり、あるいは二重に得ようとして空名を複数の寺院に登録する者がいる。これでは施主(天皇)の益にならないことから、朝廷からの布施をやめるべきである。 淳仁朝では重用され、天平宝字4年(760年)中納言、天平宝字5年(761年)正三位(この年名を浄三に改める)、天平宝字6年(762年)1月御史大夫(=大納言)と急速に昇進し、同年9月の御史大夫・石川年足の薨去により、大師・藤原仲麻呂に次いで太政官で第二位の席次を占めるに至った。同年8月には老いて力が衰えたことから淳仁天皇から労りの詔があり、宮中で扇・杖を使うことを特別に許されている[7]。天平宝字8年(764年)1月には従二位に叙されたが、同年9月の藤原仲麻呂の乱発生直前に官職を致仕し、天皇より労いの詔があって肘掛け・杖・新銭10万文を賜与されている。
来歴