この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "文宣帝"
文宣帝 高洋
北斉
初代皇帝
王朝北斉
在位期間天保元年5月10日 - 天保10年10月10日
(550年6月9日 - 559年11月25日)
都城?
姓・諱高洋
字子進
諡号文宣皇帝(廃帝済南王より)
景烈皇帝(武成帝より)
廟号顕祖(廃帝済南王より)
威宗(武成帝より)
生年孝昌2年(526年)
没年天保10年10月10日
(559年11月25日)
父高歓
母婁昭君
后妃昭信皇后
陵墓武寧陵
年号天保 : 550年 - 559年
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。北斉書/巻四 帝紀第四 文宣帝中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。北史/巻七 斉本紀中第七
文宣帝(ぶんせんてい)は、北朝北斉の初代皇帝。姓は高、諱は洋、字は子進、鮮卑名は侯尼干。本貫は渤海郡?県(現在の河北省衡水市景県)。 東魏の権臣の高歓の次男に生まれる。母は正妻の婁昭君。北魏孝武帝の皇后高氏・高澄・東魏孝静帝の皇后高氏(太原長公主)・高演(孝昭帝)・高湛(武成帝)・高済(博陵王)の同母兄弟にあたる[1]。容貌は醜く、内気で無口であった。幼い頃は才覚が人に気づかれず、見た目は茫洋としていて兄弟や周りから笑われていたが、父親の高歓は真価を見抜いていた。 兄の高澄が蘭京によって殺害されると、後を継いだ高洋は蘭京を誅殺して兄の仇を討った。以後、着実にその後継者としての地位を固め、東魏の帝位にあった元善見により丞相とされ斉王に封じられた。しかし高洋は、父が立てた傀儡でしかなかった元善見の臣下としての地位に満足せず、武定8年(550年)、25歳の時に元善見に禅譲を迫って帝位に即き、北斉を建てた。加えて552年、中山王に降封された元善見に人を使わし、3人の息子と共に殺害させた上で孝静皇帝の諡号を贈った[2]。のみならず魏の宗室元氏の一族は、後にことごとく殺されている。 即位当初は政務に力を注ぎ、楊?
生涯
しかししばらくすると政務を省みなくなり、酒色に溺れ、宮城の造営で10万の民を徴用するなど奢侈を極めるようになり、民衆生活を圧迫した。また文宣帝は、自らは漢化した鮮卑族でありながら、その劣等感を常に持っていたために、漢族の大量殺害を実行し、同胞である漢化した鮮卑貴族の利益を維持した。
死の同年である559年、高洋は北魏の旧皇族である元韶に対し、「後漢の光武帝劉秀はどうして、漢の王朝を中興し得たのだろうか?」と問うた[3]。元韶が「(漢の皇族である)劉氏が、王莽によって殺し尽くされなかったゆえでしょう」と答えると、これを受けて同年5月、高洋は元氏一族の末裔や北魏時代の高官らの虐殺を大々的に行い[4]、これにより721人が死亡した。死体は全て首都の?の近くを流れる?水に捨てられ、?水で獲れた魚から頻繁に人の爪が見つかるようになったため、以降?の人々は長らく魚を食べなくなったという[5]。
腐敗した生活は寿命にも影響を与え、34歳で崩御した。文宣帝の死後は北斉内部での混乱がいっそう強まっていった。
人物
王朝の創始者だけに有能といえば有能であったが、執念深さと残忍さ、そして死因ともなった酒乱が欠点であり、その勢いで臣下を含めてたくさんの人々が殺害された。有能さと暴君的要素を併せ持った二重面の魔性の人物といえるだろう。