文学における近親相姦
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シャルル・ペローロバの皮』の挿絵。ハリー・クラーク画。妃に先立たれた「青の国」の王は一人娘に求婚した[1]

文学における近親相姦(ぶんがくにおけるきんしんそうかん)では、小説をはじめとする文学の題材として近親相姦を取り扱ったフィクション作品について述べる。歴史上または現実社会の近親姦について扱ったノンフィクション作品等については本項では述べない。

音楽漫画アニメゲーム等については、大衆文化における近親相姦を参照。

映画テレビドラマについては、映画とテレビ番組における近親相姦を参照。

民話神話については、民間伝承における近親相姦を参照。

概要

文学表象における近親相姦は、人間関係の秩序に対する常識的想像力に揺さぶりをかけるモチーフとして用いられてきた[2]ジョージ・スタイナーによると、兄妹の結合から生まれた者のみが神々の黄昏と人間の曙光をもたらすことができるという伝記的、文学・芸術的な資料は山のようにあり、1780年から1914年まで、多くの伝記や戯曲・小説において近親相姦が描かれている[3]

西洋では『オイディプス王』や『ハムレット』など、古来より近親相姦をテーマにした作品が生み出されてきた。『ハムレット』の扱っているのは亡夫の弟との結婚ではあるが、近親相姦的な意味合いを感じて悩む息子像が描かれる。17世紀ジョン・ミルトン作『失楽園』ではサタンは娘と交わって子供たちを産ませた。トニー・タナー(英語版)はシェイクスピアの『ペリクリーズ』から「文学において描かれる姦通は過度の多弁を引き起こす場合があるのに対し、近親相姦は沈黙および発話の抑止を引き起こす」[4]と指摘している。

フランスにおいては、兄弟姉妹間の純粋な優しさとしての愛、また性的欲望を伴う愛がが描かれるのは、19世紀以降の文学において顕著となる[5]。19世紀の文学においてはそれ以前の時代よりも遥かに強く兄弟姉妹間の関係が描かれるようになるが、作家たちの人生においても、兄弟姉妹との親密な愛は感情生活の大きな要素をなしていた。スタンダールと妹ポーリーヌ、バルザックと妹ロール、エルネスト・ルナンと姉アンリエット、ウジェニー・ド・ゲランと弟モーリスなどがその例である[6]。また、近親相姦が喜劇として描かれる場合もあり、マルグリット・ド・ナヴァルの『エプタメロン』では、実母と関係して得た娘と交わった男の話が描かれるが、シリアスなものではなく、一同の笑いを誘う滑稽譚となっている[7]

ドイツシュトゥルム・ウント・ドラングでは、兄妹、姉弟の間の恋愛感情というのは非常に好まれた主題だった[8]

ミステリー小説の分野においては、島田荘司は「かつてアガサ・クリスティの時代は、母と息子の性的関係や、母と娘の戦いといったことを題材にすることはミステリーの世界では倫理的に敬遠されていた」と述べている[9]

日本においても、平安時代紫式部による『源氏物語』で義母と息子の近親相姦が描かれたことは有名である。雑誌『猟奇』の1928年10月号に掲載された兄妹の近親相姦を匂わせる夢野久作の『瓶詰の地獄』など、近親相姦は文学のモチーフの一つであった。性暴力として描かれる場合もあり、太宰治は1933年発表の短編『魚腹記』で「ぼんじゅ山脈」なる場所を舞台に、酒に酔った父に強姦される娘の姿を描いた。太宰の故郷である青森県津軽地方に「梵珠(ぼんじゅ)山脈」が実在する。

近年では、1967年のガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』で甥と叔母の近親姦が描かれている。また、ロバート・A・ハインラインのいくつかの短編小説にも近親相姦は描かれている。

小説『ロリータ』(ロリータ・コンプレックスの語源)で知られるウラジーミル・ナボコフも、1969年の『Ada or Ardor』で近親相姦に満ちた家庭を描いた。J・M・クッツェーはナボコフとムージルを例に挙げ、近親相姦はかつて文学の大きな主題だったが、今はそうではなさそうだと述べている。その理由として、セックスを疑似的な宗教体験とする(故に近親相姦を神々に対する挑戦とする)概念が霧散してしまったからかもしれないと予想している[10]
文学における近親相姦的家族

ジョン・フォードの『あわれ彼女は娼婦』(1629年から1633年)は、多くの論争を引き起こした初期の例の一つである。

マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(1785年)、『閨房哲学』(1795年)、『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』(1797年)は、全て近親相姦の詳細な描写で満ちている[11]

1969年に書かれたサミュエル・R・ディレイニーの小説、『ホッグ(英語版)』もまた、近親相姦の詳細な描写が多く描かれている。ポール・ディ・フィリポによると、ディレイニーは一般的とみなされる性的関係の境界を押し広げようとしていた[12]

ガブリエル・ガルシア=マルケス百年の孤独 (1967年)では、叔母と甥の間で起こることを含む、近縁度が大きかれ小さかれ、いくつかの近親者間のセックスがある[13]。他の文学作品では、双子の兄妹が精神が浄化されるような性行為を共有しているアルンダティ・ロイの『小さきものたちの神(英語版)』のように、結果がそれほど重大なものではないことを示している[14]

ウラジーミル・ナボコフの小説『アーダ』(1969年)では、主人公ヴァン・ヴィーンの複雑な家系における近親相姦関係を重要に扱っている。主にヴァンと妹のアーダ、アーダと妹のリュセットの間に性的関係の明白な瞬間がある。ナボコフは、必ずしも近親相姦に内在する可能性のある社会的、またはその他の複雑さや結果を、他者から隠さなければならないタブーとして扱うわけではない[15]。アーダで見られる近親相姦は、主に近親相姦関係を経験した登場人物の思索を表現するためのものだったと思われ、この時期のナボコフの小説における『ロリータ』の小児性愛や、『青白い炎(英語版)』の同性愛など「性的違反」の他の例と同様の効果を出しているものである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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