.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}文(ムン) 在寅(ジェイン)
???
(2017年)
大韓民国
第19代 大統領
任期2017年5月10日[1][2] – 2022年5月10日
首相黄教安(2017年5月10日-5月11日)[注 1]
柳一鎬(首相権限代行:2017年5月11日-5月31日)[注 2]
李洛淵(2017年5月31日-2020年1月14日)
丁世均(2020年1月14日-2021年4月16日)
洪楠基(首相権限代行:2021年4月16日-2021年5月14日)
金富謙(2021年5月14日-2022年5月11日)
共に民主党
代表
任期2015年12月28日 – 2016年1月27日
新政治民主連合
代表
任期2015年2月9日 – 2015年12月27日
大韓民国
国会議員
任期2012年5月30日 – 2016年5月29日
選挙区:釜山広域市沙上区
出生 (1953-01-24) 1953年1月24日(71歳)
大韓民国 慶尚南道巨済郡(現・巨済市巨済面明珍里694-1)[3](明珍1キル27[4])
政党(民主統合党→)
(民主党→)
(新政治民主連合→)
共に民主党
出身校慶熙大学校法学部法律学科
配偶者金正淑[5]
宗教キリスト教カトリック教会
署名
文 在寅
各種表記
ハングル:?
文 在寅(ムン・ジェイン[6][7]、朝鮮語: ???、朝鮮語発音: [mun.d??.in]、1953年1月24日[8] - )は、韓国の政治家、弁護士、元市民運動家。大韓民国第19代大統領(2017年5月10日 - 2022年5月10日)を務めた。 南平文氏
概説
生い立ち
父親は1920年生まれの文龍炯[13]、母は1928年生まれであった[12]。父の文龍炯は日本統治時代の朝鮮で高校を卒業したエリートであり、咸興農業高等学校を卒業した後、日本統治時代の興南市庁で農業係長を歴任した。戦後の国連統治下でも農業課長として働いてため、後述の米軍が咸鏡南道興南で展開した撤退作戦にて、撤収船に文一家は乗船出来た[13]。朝鮮戦争最中の1950年12月に現在の北朝鮮の咸鏡南道咸興市の興南区域(当時は興南市)から、興南撤収作戦(朝鮮語版)の際に、米国の貨物船「メレディス・ヴィクトリー(英語版)号」に乗り脱北した[14]。父親の家族は近い親戚も一緒に避難出来たが、母の親戚は誰も来られず、祖父母も北に残した[15]。脱北後は貧困の生活になった[11]。大韓民国で父は巨済島捕虜収容所(朝鮮語版)の労働者をし、母は鶏卵売りの行商をした[16][17]。
1959年[4]、小学校入学前[18]の6歳のとき[12]、釜山市影島区瀛仙洞に一家で転居。在寅の母と下の妹は2017年5月現在も影島に住んでいる[12][19]。一家が釜山にきてから父は、統営、馬山、麗水、木浦などを回って[20]靴下卸しの商いをしたものの最終的に失敗、母が救援物資として得た服を売る屋台や練炭配達で家計を支えた[19]。この経緯から家は貧しく、トウモロコシのお粥の給食が一日の食事のすべてで、月謝が払えず授業中に教室から追い出されたこともあったという[21]。釜山の南港小学校(朝鮮語版)、慶南中学校(朝鮮語版)、慶南高校(朝鮮語版)を卒業。慶南高校の同期には詩人、劇作家、演出家の李潤澤、建築家の承孝相(朝鮮語版)がいる。文在寅と李潤澤は同じクラスだった[22][23]。
現在の私邸は慶尚南道梁山市梅谷洞にある。ソウルでの政治活動のためにソウル特別市西大門区弘恩洞にも仮住まいを持っていたが、大統領に就任して青瓦台に入居したあとに売却した。大統領退任後は梁山に戻る予定だという[24]。
高校3年生のときはソウル大学校の受験に失敗し[25]、高校卒業後、ソウルの予備校・鍾路学院(朝鮮語版)(入塾試験の成績が1位で受講料を免除された[17])で1年浪人生活をして、4年全額奨学金のあった慶煕大学校法科大学(法学部)法学科に志望校を変更。首席で合格して1972年に入学[25]。 1974年、慶煕大学校3年生のとき、大学祭でのちに妻となる2学年後輩[注 3]の慶煕大学校声楽科の学生、金正淑と出会う。当初は単なる先輩、後輩だったが、翌1975年に文在寅が当時の朴正煕政権に反対する民主化デモに参加して、朴政権側が放った催涙ガスの直撃を受けた際に金が看病したことがきっかけで仲が深まったという[26]。慶煕大学校在学中の1975年、朴政権に反対する民主化運動に関わった容疑で逮捕され[27]、ソウル市の西大門刑務所に収監された。 通常なら兵役に就く時期は一定期間内から選ぶことができるが、この時代には民主化運動を行って逮捕された者はただちに強制入隊させられるという慣習があったため、文も釈放後すぐに入隊し、厳しい訓練で知られる特戦司令部第1空挺旅団に配属された。爆破任務を担う優秀な軍人だったといい、司令表彰も受けている[27]。 1976年には板門店で北朝鮮と韓国および国連軍の軍事衝突「ポプラ事件」が起こり、文の部隊が解決のために投入されている[28]。軍隊での最終階級は兵長だった[29]。 1978年の除隊後、父が心臓発作で59歳(数え年)で急死[19]、突然この世を去った父に息子が出世する姿を見せてあげられなかったという悔恨の念から司法試験の準備をすることを決意[30]。全羅南道海南郡の大興寺で司法試験の勉強に集中[18]。1980年に慶煕大学校を卒業したあと、合格率2.9%と言われた第22回司法試験に合格。全斗煥率いる軍部が民主化運動を弾圧した光州事件に伴う非常戒厳の全国拡大措置による予備検束で逮捕され、司法試験合格通知書は拘置所で受け取った。司法修習の同期には、2011年10月からソウル市長を務めている朴元淳がいる[18]。司法修習中の1981年に金正淑と結婚(1982年に長男、1983年に長女が誕生)。文本人が語ったところによると、プロポーズは金からで、文が友達と一緒にいたところに金が来て、突然「在寅、あなたは私と結婚するの?しないの?早く答えて!」と言われ、びっくりして「わかった」と答えたという[26]。1982年に司法修習を次席で修了したが、デモと運動家としての経歴のため、志望していた裁判官になれず[30]、弁護士になった。「法律家は庶民を助けるべきだ」との考えからキム&チャン法律事務所
民主化運動参加と妻との出会い
兵役
弁護士
1996年に起きた「ペスカマ号事件(朝鮮語版)」の弁護を担当。遠洋漁船で働き始めた中国朝鮮族の船員たちが、雇用主の韓国人船員の暴力に耐えかね暴発した事件を「人権という立場」から捉えなおし、死刑から無期懲役への減刑を実現した[14]。
その後も政界入りの誘いを受け続け、2002年6月の第3回全国同時地方選挙の際には、当時大統領候補だった盧武鉉から数回、釜山市長選挙出馬を勧められたが固辞した[31]。 2002年12月19日に行われた大統領選挙に盧武鉉が立候補した際、釜山地域における選挙対策本部長を務めた。盧が大統領に当選したあとも文は何度か弁護士業務に復帰したいという意思を示したが、翌2003年2月25日に盧武鉉政権が発足すると、大統領府(青瓦台)民情首席に就任。1年で辞任したが、2004年3月、ヒマラヤへ登山旅行中に盧が国会に弾劾訴追されたことを知り[18]、急遽帰国して盧の弁護団幹事となる。2004年5月に盧に対する弾劾訴追が憲法裁判所
盧武鉉政権
常に、盧武鉉の側にあった事から、「盧武鉉の影法師」の異名をとった[34]。 2008年2月24日に盧武鉉が大統領の任期を終えて退任すると、文は慶尚南道梁山市の私邸に戻り、釜山で弁護士業務を再開した[34]。2009年5月23日の盧武鉉の自殺時、国民葬を葬儀委員会常任執行委員長として取り仕切った。
下野・政界入り