文咨明王
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文咨明王

各種表記
ハングル:????
漢字:文咨明王
発音:ムンジャミョンワン
英語:Munjamyeong-Wang
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文咨明王(ぶんしめいおう、生年不詳 - 519年)は、高句麗の第21代の王(在位:492年 - 519年)。姓は高、は羅雲。王号は明治好王(????)ともいう。『三国遺事』王暦では明理好王个雲とも記される。先代の長寿王の孫であり、父は長寿王の王子の古鄒大加の助多だが、助多が早くに亡くなったために羅雲は大孫とされた。長寿王が491年12月に死去し、年が改まって492年に王位についた。中国史書には「雲」として現れる。
治世

先代の長寿王に引き続き、中国に対しては南北朝両面に通好し、北魏からは<使持節・都督遼海諸軍事・征東将軍・領護東夷中郎将・遼東郡開国公・高句麗王>、南斉からは<使持節・散騎常侍・都督営平二州・征東大将軍・楽浪公>と冊封された。その後も北朝・南朝(502年に代わる)の両者に対して朝貢を続け、中国側からも冊封体制下での高い評価を受け続けた。梁からは502年に車騎大将軍、508年に<撫軍大将軍・開府儀同三司>と進号された(『三国史記』には「軍を東と書くものもある」と分注がある)。ただし、一方的に中国王朝に従属したのではなく、北魏からは世子の入朝を求められたにもかかわらず、病気を理由として世子の代わりに父の従弟を送っている。494年には扶余王が妻子とともに降伏してきたのを受け容れた。

長寿王の時代に半島内に最大版図を築いてはいたが、文咨明王代になると百済新羅が同盟(羅済同盟)して対抗していたため、これら二国に対しては大きな戦果をあげることはできなかった。494年には薩水(清川江)の原(忠清北道槐山郡)で新羅と戦って犬牙城(忠清北道槐山郡)に追い詰めたが、百済が3千人の兵を送って新羅を援けたので、新羅の包囲を解いて引き上げた。495年には百済の雉壌城(黄海南道白川郡)を包囲したが、新羅が援兵を派遣したために引き上げることとなった。496年には新羅の牛山城を攻めたが勝てず、翌497年にようやく攻め落とすことができた。逆に503年には百済に攻め入られ、水谷城(黄海北道新渓郡多栗面)を落とされる。507年には靺鞨と共同で百済の漢城ソウル特別市)を攻めようとしたが、百済軍に迎撃されて引き返している。512年9月にも百済に攻め入り、加弗城・円山城を陥落させ、男女一千人余りの捕虜を得た[1]

国内政策では、仏教を拡大するために498年に平壌に金剛寺を創建した。在位28年にして519年に死去し、文咨明王とされた。埋葬地については記事はない。死後、北魏の霊太后からは<車騎大将軍>を追贈された。
脚注^ ただしこの戦勝記事については、対応する『三国史記』百済本紀・武寧王12年9月条には、高句麗の戦勝後に武寧王が精兵3千騎を用いて急襲し、高句麗兵を壊滅させたと記している。

参考文献

三国史記』第2巻 金富軾井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X

三国遺事一然坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー










高句麗王(第21代:492年 - 519年

東明聖王前37-前19 / 瑠璃明王前19-18 / 大武神王18-44 / 閔中王44-48 / 慕本王48-53 / 太祖大王53-146 / 次大王146-165 / 新大王165-179 / 故国川王179-197 / 山上王197-227 / 東川王227-248 / 中川王248-270 / 西川王270-292 / 烽上王292-300 / 美川王300-331 / 故国原王331-371 / 小獣林王371-384 / 故国壌王384-391 / 好太王391-413 / 長寿王413-491 / 文咨明王492-519 / 安臧王519-531 / 安原王531-545 / 陽原王545-559 / 平原王559-590 / 嬰陽王590-618 / 栄留王618-642 / 宝臧王642-668


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