文化勲章
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この項目では、日本の勲章について説明しています。韓国の文化勲章については「文化勲章 (韓国)」をご覧ください。

文化勲章
文化勲章の正章(右)と略綬(左)
日本の勲章
綬淡紫
創設者昭和天皇
対象文化ノ発達ニ関シ勲績卓絶ナル者
状態存続
歴史・統計
創設1937年昭和12年)2月11日
期間1937年 - 現在
最初の授与1937年4月28日
序列
上位桐花章
同位旭日大綬章瑞宝大綬章・宝冠大綬章

文化勲章の綬
文化勲章を佩用した初代中村吉右衛門1951年昭和26年)受章)平成25年度文化勲章親授式にて安倍晋三首相と記念撮影をする受賞者。左から医学者の本庶佑、万葉学者の中西進、書家の高木聖鶴、安倍首相、工学者の岩崎俊一、俳優の高倉健

文化勲章(ぶんかくんしょう)は、日本の勲章の一つ。
概要

科学技術芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績を挙げた者に授与される、階級の無い単一級の勲章である[1]。当時の内閣総理大臣廣田弘毅の発案により[2]1937年の文化勲章令(昭和12年2月11日勅令第9号)により制定された[3]
意匠.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに文化勲章令の原文があります。

文化勲章は他の勲章と異なり、制式と図様についても1937年の「文化勲章令」(昭和12年2月11日勅令第9号)により定められている。賞勲局よび造幣局の嘱託であった東京高等工芸学校教授畑正吉デザインした[4]。なお、意匠橘花を基調とするが、これには昭和天皇の意向が反映されている(後述)。

文化勲章は、章、鈕、環、綬の各部から構成されている。

表面はの五弁の花の中心に三つ巴曲玉を配し、裏面は青地に「勲功旌章」と刻む[5]

鈕は橘の葉と実を、それぞれ緑色と淡緑色で表す。

環は金色で小形の楕円とする。

綬の色は淡紫色で、幅は3.7センチメートルに定められている。
略綬
淡紫色で直径1センチメートルのロゼット[5]、同色の翼を付すこととされている。

蓋表に鈕の図と「文化勲章」の字を記す[5]
意匠制定と昭和天皇

東京朝日新聞記者で長く宮内省記者会に所属した井原頼明は、自著『皇室事典』(冨山房、勲章制定の翌1938年(昭和13年)に初版[注 1])で、昭和天皇の意向で意匠桜花から橘花に変更されたことを伝聞として、なぜ橘花なのかを自説として紹介している。なほ文化勲章の圖案はもと櫻花に配するに曲玉の意匠であつたが、「櫻は昔から武を表はす意味によく用ゐられてゐるから、文の方面の勲績を賞旌するには橘を用ゐたらどうか」との意味の畏き思召を拜し、恐懼した當局では更に案を練って工夫を凝らし、橘花に曲玉を配した意義深い圖案が制定されたと承る。
橘は古來我が國では尊重され愛好せられ、桓武天皇平安京に遷都遊ばされてからは紫宸殿の南庭に用ゐられて右近橘と稱せられ、左近櫻と共に併稱せられて今日に及び、萬葉集にも數多く詠ぜられてゐるところである。垂仁天皇常世國に橘を求められたことよりして、橘は永劫悠久の意味を有してゐるものであり、その悠久性永遠性は文化の永久性を表現するのに最も適するものとの聖慮と拜察される。 ? 井原頼明『皇室事典 増補版』冨山房、1979年(昭和54年)。233頁

1976年昭和51年)8月23日那須御用邸における天皇と記者との懇談の際、天皇はこの件について質問を受けた。天皇は意匠制定に関与したことを否定せず、「橘の方は常緑樹でもあるし、『古事記』にも出てくるし、文化と言うのは、生命が長くなければならない、と感じたからです」とその意図を説明した[6]
授与2000年11月3日皇居にて第125代天皇(手前左)から文化勲章を授与される筑波大学名誉教授白川英樹(手前右)

親授式が毎年11月3日文化の日皇居宮殿松の間で行われ、天皇から直接授与(親授)される。

1997年(平成9年)から現行の天皇親授に切り替えられたが、それまでは宮中で天皇臨席のもとに内閣総理大臣が勲記と勲章を手交する伝達式の形式で行われていた。そのため、以前は同じく宮中伝達式により授与される旧勲二等と同位に位置づけられていたが、現在では同じく天皇親授により授与される大綬章(旧勲一等)と同位に位置づけられている[注 2]
受章者選考手続き

文化庁文化審議会に置かれる文化功労者選考分科会の意見を聞いて文部科学大臣が推薦し、内閣府賞勲局で審査したうえ、閣議で決定する[7]。文化勲章受章候補者推薦要綱(平成2年12月12日内閣総理大臣決定、平成2年12月14日閣議報告)によると、文部科学大臣は、“文化の発達に関し勲績卓絶な者”を文化功労者のうちから選考し、毎年度おおむね5名を内閣総理大臣に推薦する。文化功労者以外の者でも必要と認められる場合には選ばれることがある(この場合、併せて文化功労者になる)。

慣例として、当年のノーベル賞受賞者が文化勲章未受章の場合にも授けられてきた。この慣例は、未受章者であった江崎玲於奈1973年(昭和48年)に物理学賞を受賞した際翌年受章することになったことに端を発し、それ以降のケースではノーベル賞と同年となった(これが“ノーベル賞受賞で政府が慌てて文化勲章を授ける”ように見える一因である。江崎以前のノーベル賞受賞者は全員が先に文化勲章を受章していた。1994年(平成6年)に文学賞を受賞した大江健三郎は辞退し[8]2019年受章の吉野彰化学賞受賞)[9] は文化功労者にも選ばれていなかった。また1974年(昭和49年)に平和賞を受賞した佐藤栄作は「文化に直結しない」として授与されていない[8])。

しかし2017年(平成29年)に文学賞を受賞したカズオ・イシグロは文化勲章が贈られず、この慣例は破られた[8]。幼年期に母国日本を離れており作品を英語で書いているイシグロが、日本文化への貢献が顕著かどうか解釈が分かれるため、慣例通り文化勲章が授与されるかは注目された[10]


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