文人
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この項目では、中国固有の人間類型について説明しています。その他の用法については「文人 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

文人(ぶんじん)とは、中国の伝統社会に生じたひとつの人間類型であり、「学問を修め文章をよくする人」の意である[1]。なお、書家画家を表す「墨客」(ぼっきゃく)を合わせて、「文人墨客」ということもある。
概要

中国の長い歴史的変遷によって文人の性格は大きく変化し、研究者によって様々な解釈がなされ、必ずしも一様とはいいきれないが、「学問を修め、文章をよくする人」であることが文人たる所以といえる。この「学問を修める」とは経書経学儒学的知識)を中心に、史学漢学など幅広い知識を有する読書人であることを前提とし、さらにその教養をベースとした詩文の才が問われる。「文章を能くする」とは優れた文章作成能力を差し、能文であるのみならず能筆であることも分ち難く結びついている。

さらにもうひとつ文人である条件を挙げるならば、士人(士大夫)でなければならないということである。中国において士人とは時代的変遷はあるものの概ね、儒家としての人文的教養を身につけ、支配的・指導的な立場にある者のことをいう。つまり文人は王侯・貴族・官僚・地主・地方豪族などの支配者的な階級・地位の出身者がほとんどであった。

文人に共通する美意識として風流がある。風流という言葉は漢代には上層民の文化が下層民を感化するといった意味で使われたが、晋代玄学の流行とともに、優れた才能を持ち、精神的な深淵に達した士人が顕す魅力的な人格を指すようになる。清談を行う者は風流人と見なされ、風流人が表面的に顕した振る舞い・言葉遣い・風習は理想化されて文人の人生の基準とされた[2]

しかし、時代が下った明代以降には必ずしもこの条件に当てはまらない文人が多数出現しているという点も看過できない。

六朝時代にそのプロトタイプが見られるが、中唐から宋代になると文人的な自覚をもった人物が現れ始める。彼らの意識の根底には雅俗認識を主な価値基準とする人間観・世界観があり、風雅を求め山紫水明を愛する気風が生じてくる。と同時に、多芸多趣味・アマチュアリズム・反俗性・孤高性・養生隠逸志向などの多様な文人属性が数えられるようになる。このような属性の付与をもって今日我々がイメージする一般的な「文人」像が成立したといえる。なお、必ずしも文人とされる人物が「文人」という名辞をもって自らをはっきり規定していたのではなく、後に「文人」としての枠組みにその人物を収めた場合も多分にあるということを留意されたい。

日本の文人については中国との社会制度の違いから、その定義が極めて難しく、厳密に言えばその存在を否定しかねない。しかしながら、特に江戸時代中期以降になると明確に文人意識を持ち、文人文化を実現した人々が多数存在したこともまぎれもない事実である。
変遷

そもそも文人とは「文房の人」、つまり書斎にいる人という意味で、中国では普通に使われてきた。これは中国において書斎を中心に文化が発展してきたからであり、「武人」つまり軍人との対比的な意味合いで使われた。時代的変遷を総じていえば、文人の要素として時代を遡るほど徳(道義)を強調する傾向があり、時代が下ると風流に傾倒するといえる。
周・漢

「文人」という言葉が見られる最古の文献は周代まで遡ることができ、儒学経典の『書経』や『詩経』に「文徳の人」(『詩経』 毛氏伝)あるいは「徳美あって記さるる人」(鄭玄の注釈)とある。つまり学問とに秀でた人物を指している。儒教思想は実践的であることから学問を行えば自ずと徳が磨かれるものと見なされていた。漢代になっても文人の意味はほぼ同義である。この時代の文人は記録文書や政治的公文(上書・秦記)などの文書を職業的に扱っていた。また戦国時代末に現れた楚国屈原に代表される辞賦作家は、王侯の娯楽用としてを作ったが、漢代になるとこの辞賦作家が多く登場している。後漢末頃からが隆盛しはじめ、王侯貴族らは詩に巧みな文人を集めて酒宴を開いて楽しんだという。これら辞賦作家や宮廷詩人を総じて倡優文人(しょうゆうぶんじん)という。彼らは官僚という立場ではあったが政治や社会に対する影響力は小さかった。

後漢前半に生きた王充は『論衡』において最初に文人論を述べた。それによると文を扱う才能を5段階に分け、上から「鴻儒」・「文人」・「通人」・「儒生」・「俗人」としており、文人の作文能力を高く評価している。
六朝時代

六朝時代になると九品官人法の導入などにより士人層が貴族化・世襲化しはじめ、文人はその特権的な立場から生活に窮することがなくなり、文芸(文学)に耽溺し、官僚としての職務を俗なる世事として疎んじる傾向が見られるようになる。この背景には儒教よりも老荘道家思想が興起しており文人に大いに影響を与えていたとみることができる。この六朝時代に「文人」という呼び名が職業・身分という意味合いを離れ、士人の生き方のひとつの選択肢として、あるいはひとつの精神的な価値観として認識され、これ以降もその意味で使われるようになる。


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