この項目では、山梨県に存在した町について説明しています。その他の用法については「敷島町 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
〒400-0193
山梨県中巨摩郡敷島町島上条1248.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分15秒 東経138度31分39秒 / 北緯35.68756度 東経138.52761度 / 35.68756; 138.52761座標: 北緯35度41分15秒 東経138度31分39秒 / 北緯35.68756度 東経138.52761度 / 35.68756; 138.52761
敷島町役場
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敷島町(しきしままち[1])は、かつて山梨県中巨摩郡にあった町である。町名は合併時の公募による。 県中央北部、郡北東部に位置する。東西4キロメートル、南北15キロメートルの南北に長い帯状の町域で、中央部を亀沢川が南流し、中部の亀沢地区で東側を流れる荒川と合流する。北部は山岳地帯で茅ヶ岳や金ガ岳のほか、曲岳や黒富士、太刀岡山などの山々が連なる。また、荒川上流の花崗岩の侵食により形成された景勝地として知られる御岳昇仙峡の西側に属する。中南部は荒川扇状地の平坦地で、「島三条」地域は古くから水田農耕が行われている。 町域には旧石器時代の遺跡は見られないものの、縄文時代からの考古遺跡が分布している。縄文遺跡は亀沢川流域に多く分布しており、北部山間部より南部平坦地に集中する。大下条の金の尾遺跡は弥生時代の集落遺跡を主体としているが、縄文前期から中期の住居跡や縄文土器などの遺物が出土している。また、滝下の金ノ宮遺跡は縄文中期の大規模集落として知られる。金の遺跡は県内で少ない弥生時代の集落遺跡で、弥生後期を中心に水田遺構は見られないが住居跡や土坑内の壺棺を伴う方形周溝墓が検出され、弥生土器などの遺物も出土している。 古墳時代の遺跡には大下条の御岳田遺跡
地理
歴史
先史・古代天狗沢瓦窯跡
古代の律令時下では巨麻郡に属する。甲斐国は早くから仏教文化を受容し、盆地北縁部では笛吹市春日居町寺本に寺本廃寺(寺本古代寺院)があり、甲府市川田町には寺本廃寺へ瓦を供給した川田瓦窯跡があるが。町域では天狗沢に7世紀中頃の天狗沢瓦窯跡があり、供給先は不明であるが瓦を供給していたと考えられており、平安仏も出土している。また、中下条・上下条の松ノ尾遺跡は奈良・平安時代の集落遺跡として知られ、近辺は巨摩郡家が所在した可能性も考えられている。
中世上条堰
平安時代後期には甲府盆地各地で荘園が成立するが、町域南部は荒川沿いの志摩荘域に含まれる[2]。志摩荘は鎌倉時代初期に山城国(京都府京都市西京区)の松尾神社領で、正応6年(1293年)以降には九条家領となる[2]。中下条はその中核地域であったと考えられている。鎌倉時代の痕跡としては牛句の敷島総合公園に保存されている鎌倉時代造立の鳥居がある。これは甲府市御岳町の金櫻神社の一の鳥居で、元は牛句に存在した。また、吉沢の常説寺に伝来する白輿は鎌倉時代のもので、順徳天皇の使者が乗ったものであると伝わっている[2]。
戦国時代に甲斐は守護・武田氏と有力国衆・他国勢力との乱国時代を経て、武田氏による統一が進む。永正18元年(1521年)2月27日には駿河国の今川氏配下の福島正成を主体とする今川勢が富士川沿いに侵攻し、9月16日には南アルプス市戸田の富田城を陥落させる。福島勢はさらに甲府へ迫り荒川を挟んで武田信虎と対峙すると、10月16日には甲府市飯田町付近において飯田河原の戦いが起こり、福島勢は敗退し甲府市上曽根町の勝山城へ退去する[2]。さらに信虎は11月23日には島上条の上条河原の戦いで福島勢を撃退し、翌年には甲斐から退去させている[2]。島上条に鎮座する八幡神社は武田氏の尊崇を受け、室町時代の嘉永3年(1443年)には甲斐守護・武田信重が鰐口を奉納している(現在は富士川町最勝寺の最勝寺所蔵)[2]。八幡神社には飯田河原・上条河原合戦の供養石碑も存在している。
また、『甲斐国志』によれば、島上条字村続には武田家臣・土屋氏の居館が存在していたという[3]。大下条の臨済宗妙心寺派寺院・宝珠寺は武田信廉の子である大竜寺麟岳が開山であるという[4]。
中世には荒川支流亀沢川より取水し荒川右岸地域を灌漑する上条堰が用水堰として開削され、地域社会により管理・維持されている。漆戸は中世に漆の産地として知られたほか、町域北部の山岳地帯は戦国時代に杣(そま)として仕えていた[2]。戦国時代には龍地宿(甲斐市竜地)から甲府へ向かう穂坂路と北の金桜神社(山梨市)へ向かう参道の交差点付近に十日市場が成立し、「町屋」の地名が残されている[5]。
天正10年(1582年)6月に武田遺領を巡る天正壬午の乱が起こると甲斐では相模国の北条氏直と徳川家康が対峙し、家康ははじめ甲府市の尊躰寺(甲府市城東)・一条信龍屋敷(甲府市北新)、後に韮崎市の新府城に本陣を置いた。対して北条勢は現在の北杜市一帯の城砦に布陣した。徳川軍の布陣のなかでは甲府市御岳町に御嶽衆や下伊那衆の知久頼氏が配置され甲府の背後を監視し、同様に下芦沢の御嶽芦沢小屋(平見城の烽火台)にも岡部正綱麾下の御嶽衆・相原内匠助らが籠城し、同様に甲府の背後を監視した。
近世