数理論理学
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数理論理学(すうりろんりがく、 : mathematical logic)または現代論理学[1][2]、記号論理学[1][2]数学基礎論[3]超数学[4]は、数学の分野の一つであり[4]、「数学理論を展開する際にその骨格となる論理の構造を研究する分野」を指す[3][注 1]。数理論理学(数学基礎論)と密接に関連している分野としては計算機科学〔コンピュータ科学〕[4]理論計算機科学などがある[注 2][注 3]。前現代の論理学については「伝統的論理学」を参照

数理論理学の主な目的は形式論理の数学への応用の探求や数学的な解析などであり、共通課題としては形式体系の表現力や形式証明系の演繹の能力の研究が含まれる。

数理論理学はしばしば集合論モデル理論再帰理論証明論の4つの領域に分類される。これらの領域はロジックのとくに一階述語論理や定義可能性に関する結果を共有している。計算機科学(とくにACM Classification(英語版)に現れるもの)における数理論理学の役割の詳細はこの記事には含まれていない。詳細は計算機科学におけるロジック(英語版)を参照。

この分野が始まって以来、数理論理学は数学基礎論の研究に貢献し、また逆に動機付けられてきた。数学基礎論は幾何学代数学解析学に対する公理的枠組みの開発とともに19世紀末に始まった。20世紀初頭、数学基礎論は、ヒルベルトプログラムによって、数学の基礎理論の無矛盾性を証明するものとして形成された。クルト・ゲーデルゲルハルト・ゲンツェンによる結果やその他は、プログラムの部分的な解決を提供しつつ、無矛盾性の証明に伴う問題点を明らかにした。集合論における仕事は殆ど全ての通常の数学を集合の言葉で形式化できることを示した。しかしながら、集合論に共通の公理からは証明することができない幾つかの命題が存在することも知られた。むしろ現代の数学基礎論では、全ての数学を展開できる公理系を見つけるよりも、数学の一部がどのような特定の形式的体系で形式化することが可能であるか(逆数学のように)ということに焦点を当てている。
下位分野

Handbook of Mathematical Logic は数理論理学を大まかに次の4つの領域に分類している:
集合論

モデル理論

再帰理論

証明論と構成的数学 (これらはひとつの領域の2つの部分と見做される)

それぞれの領域は異なる焦点を持っているものの、多くの技法や結果はそれら複数の領域の間で共有されている。これらの領域を分かつ境界線や、数理論理学と他の数学の分野とを分かつ境界線は、必ずしも明確ではない。ゲーデルの不完全性定理は再帰理論と証明論のマイルストーンであるだけではなく、様相論理におけるレープの定理(英語版)を導く。強制法の手法は集合論、モデル理論、再帰理論のほか直観主義的数学の研究などでも用いられる。

圏論の分野では多くの形式公理的方法を用いる。それには圏論的論理(英語版)の研究も含まれる。しかし圏論は普通は数理論理学の下位分野とは見做されない。圏論の応用性は多様な数学の分野に亙っているため、ソーンダース・マックレーンなどの数学者らは、集合論とは独立な数学のための基礎体系としての圏論を提案している。これはトポスと呼ばれる古典または非古典論理に基づく集合論の成す圏に類似の性質を持つ圏を基礎に置く方法である。
歴史

数理論理学は、19世紀の中頃、伝統的論理学とは独立な数学の下位分野として登場した(Ferreiros 2001, p. 443)。これが登場する以前、論理学は修辞学また哲学とともに、三段論法を通じて研究されていた。20世紀の前半は数学の基礎に関する活発な議論とともに、基本的な多くの結果が見られる。
初期の歴史「論理学の歴史」も参照

論理に関する理論は多くの文化と歴史の中で発展してきた。その中には中国インドギリシャイスラーム世界が含まれる。18世紀のヨーロッパでは、形式論理の演算子を記号的または代数的な方法の中で取り扱おうという試みが、哲学的数学者によってなされた。その中にはゴットフリート・ライプニッツランベルトが含まれる。しかしライプニッツらの仕事は孤立して残っているばかりでよく知られていない。
19世紀

19世紀半ば、ジョージ・ブールオーガスタス・ド・モルガンは体系的で数学的な論理の取り扱いを与えた。ブールらの仕事は、ジョージ・ピーコックなどの代数学者の仕事の上に打ち立てられたものであり、アリストテレスの伝統的論理学を、数学基礎論を十分に研究できる枠組みに拡張した(Katz 1998, p. 686)。

チャールズ・サンダース・パースは、1870年から1885年の自身の論文において、ブールの研究の上に関係と量化子のための論理体系を作り上げた。

ゴットロープ・フレーゲは1879年に発表した自身の概念記法において、量化子を含む論理の独自の開発を提示した。この仕事は論理の歴史における特徴的な転換点であると一般に考えられている。フレーゲの仕事は、この世紀の変わり目にバートランド・ラッセルが宣伝するまで日の目を見なかった。フレーゲの2次元的な表記法は広くは受け入れられず同時代のテキストでも使用されていない。

1890年から1905年、エルンスト・シュレーダーは Vorlesungen uber die Algebra der Logik を3つの巻に出版した。シュレーダーの仕事はブール、ド・モルガン、パースらの仕事をまとめ、拡張し、19世紀終わりに理解されていた記号論理学の包括的な手引書となった。
基礎理論

数学が正確な基礎の上に築かれていなかったことへの不安が、算術、解析、幾何のような数学の基礎的な領域に対する公理系の開発をもたらした。

論理学において、算術とは自然数の理論を意味する[注 4]ジュゼッペ・ペアノ1889)は後に彼の名前が付けられた算術の公理系(ペアノの公理)を発表した。これはブールとシュレーダーの論理体系の変種を用いているが、量化記号が追加されている点で異なる。ペアノはこのときフレーゲの仕事を知らなかった。同時期にリヒャルト・デデキントは、自然数の全体はそれらの帰納法の性質によって一意的に特徴づけられることを示した。デデキント(1888)は別の特徴付けを提案した。その特徴付けは、ペアノの公理にあったような形式論理的な性格を欠いていたが、ペアノの公理においては到達できない定理を証明するものであった。それには自然数の集合の(同型を除いた)一意性と、加法と乗法の後者関数と数学的帰納法に基づく再帰的定義が含まれる。

19世紀中頃、ユークリッドの幾何学の公理の欠陥が世に知られるようになった (Katz 1998, p. 774)。1826年にニコライ・ロバチェフスキーによって確立された平行線公準の独立性 (Lobachevsky 1840) に加え、数学者達は、ユークリッドが明らかと考えていた幾つかの定理が、実際にはユークリッドの公理からは証明できないことを発見した。それらの中には、直線は少なくとも二点を含むという定理や、同じ半径を持ち中心が半径と同じ距離だけ離れている二つの円は交わらねばならないという定理がある。ヒルベルト (1899) はパッシュの先行研究 (1882) のもとに、完全な幾何学の公理(英語版)の集合を開発した。幾何学の公理化の成功はヒルベルトに他の数学の分野(自然数や数直線など)の完全な公理化を探求するよう動機付けた。


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