数学教育協議会
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すうがくきょういくきょうぎかい数学教育協議会
水道方式のタイルを使った足し算の素過程の教授法。水道方式のタイルを使った足し算の素過程の教授法。
英語名称The Association of Mathematical Instruction[1][2]
略称数教協[3](AMI)[1]
専門分野教育
設立1951年
会長

遠山啓(初代委員長)[4]
伊藤潤一(2023年9月現在)[5]
事務局 日本
167-0042
東京都杉並区西荻北4-3-14-101[2]
刊行物月刊誌『数学教室』[6][7]
ウェブサイト ⇒http://ami.to/
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数学教育協議会(すうがくきょういくきょうぎかい、: The Association of Mathematical Instruction[1][2])とは、1951年昭和26年)4月に発足した、数学教育に関する民間教育研究団体[8]。略称は数教協[3](AMI[1])。その目的は当時の生活単元学習の数学教育によって、児童の計算力の低下や論理的思考の意欲低下が生じていることに危機感を覚えた数学者達が、生活単元学習に代わる新しい数学教育を打ち立てることであった[9]。その研究過程で1958年に水道方式と名付けられた計算指導の理論を生み出し、数学教育の現代化を主張して指導要領や教科書を批判しつつ、「たのしい数学」の実践的研究活動を展開した[10][11]。1950-1960年代の数教協の理論・実践への取り組みは他教科・他団体にも大きな影響を与え、21世紀にも研究対象となっている[12][13][14][15]
沿革
生活単元学習への反対運動 1951年-1957年

数学者の遠山啓はある日長女が持ってきた算数のテスト成績がひどく悪いのを知って、授業参観したところ当時行われていた生活単元学習[注 1]に大きな疑問を抱いた[18]。遠山は東京理科大学の数学教育の研究会に出席するようになり、そこで知り合った黒田孝郎と山崎三郎とともに生活単元学習を打ち倒すための新しい会を作ることにした。遠山らは当時著名だった数学者・小倉金之助の後押しを依頼し、1951年(昭和26年)4月16日に第1回の研究会を行った。研究会の場所には遠山の東京工業大学の研究室と香取良範の成蹊中学、椎名善男校長の道和中学校が使われ、月2回の会合が行われた[19]

1951年の秋に全国組織にするために要綱の作成に取りかかり、「数学教育協議会設立趣旨(草案)」[注 2]が作られた。その起草委員は小倉金之助、奥野多見男、香取良範、黒田孝郎、遠山啓、中谷太郎、山崎三郎の7名の数学者や教師たちであった[19]。冒頭には「われわれは、日本の独立を達成し、国民の生活を高め豊かにしていくことを念願するものである」と述べられ、「今日の数学教育は破局に瀕している。児童の計算力は2年低下している」として、「その最大の原因は生活単元学習と呼ばれる学習形態にある」と断じている。当時の日本は敗戦後のアメリカ占領下にあり、アメリカによって導入された生活単元学習を批判することは「占領政策批判」と取られる恐れがあったので、文章には苦心したという[21]

数教協の名がはじめて月刊雑誌に載ったのは『教育』1952年(昭和27年)5月号の数学教育座談会の記事だった。この座談会で国立教育研究所の久保俊一によって、疑う余地のない算数の学力低下が明らかにされ、数教協の主張が裏付けられた[22]。当初の会員は十数名で、徹底的に内部討論が行われたという。生活単元学習に正面切って反対したため激しい批判にさらされた[23]。1952年(昭和27年)8月に機関誌『研究と実践』がガリ版刷り14ページで発行された。この機関誌は1956年1月の129号まで発行された[24]。1953年に第1回の全国大会が法政大学で行われて、要綱草案が可決されて研究会としての形が整った[21]

1955年(昭和30年)2月から新しい機関誌『数学教室』が発行され、批判から実践へと研究が変化していった[25]。『数学教室』は2023年現在も発行が続いている[7](節「機関紙」も参照)。
数学教育の近代化運動と脱退騒動 1957年-1962年

1957年(昭和32年)の第5回大会では「数学教育の近代化」[注 3]が議論され、小学校での「比例」、中学校での「論証」、高校での「微積分」が論点となった。小学校の比例では「量の指導体系」が作られ、中学校では図形教育の体系作りが行われた。高校の微積分では関数概念が検討された[33]。生活単元学習の衰退[注 4]と共に、研究会の主体は学者グループから現場の教師に移っていった[33]

会の設立趣旨にある「現場の教育活動に基礎をおく研究と実践を通じて、正しい数学教育の建設に努力する」という体制が実現した[33]。若い教師が積極的に参加するようになり、全国的なサークル活動が盛んになり、地方ブロックの大会も行われるようになった[34]。また1958年(昭和33年)には小学校の計算入門のための計算体系の理論「水道方式」が提唱され、文部省とそれを支持する学者と激しく対立するようになった(「水道方式」も参照)。

1958年(昭和33年)の第6回大会以後「量こそが数学の出発点である」として明治以来戦前までの国定教科書の「数え主義」[注 5]を否定した[36]。その量の概念からタイルを使う位取りのシステムと、筆算による計算システムの理論である水道方式が生まれた。1959年(昭和34年)には、戦前の国定教科書の「暗記主義」を主導してきた人々との対立が激しくなり、協議会の外では元国定教科書編集者の塩野直道と遠山啓が激しい論争を繰り広げた。1962年(昭和37年)に遠山啓と対立していた副委員長の横地清をはじめとする29名が声明を出して数教協を脱退し、数学教育実践研究会(数実研)を作った[36][37]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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