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敬台院(きょうだいいん、文禄元年(1592年)[1] - 寛文6年1月4日(1666年2月7日))は、徳島藩初代藩主・蜂須賀至鎮の正室。父は小笠原秀政。養父は徳川家康。母は登久姫(松平信康の娘)。名は万姫もしくは氏姫。別名はお虎の方。子に蜂須賀忠英、三保姫(池田忠雄正室)、正徳院(水野成貞正室)がいる。 文禄元年(1592年)に小笠原秀政の長女として産まれる。その後、母方の曾祖父の徳川家康の養女となり伏見城に移る。慶長5年(1600年)、9歳のときに阿波国徳島藩主・蜂須賀至鎮に嫁ぐ[1]。 蜂須賀に嫁いでからは日精に深く帰依し、大石寺御影堂の建立寄進、江戸鳥越・法詔寺建立、大石寺朱印状下附の実現、総本山二天門の建立、日精の公儀年賀における乗輿の免許、大石寺基金七百両の寄進、「細草檀林」設立に当たっての支援などに貢献した。 正保2年(1645年)に江戸の法詔寺を阿波に移して敬台寺を創立した。日蓮宗富士派(現在日蓮正宗)の信徒であったことで知られている。 寛文6年(1666年)に死去し、敬台寺に葬られる。法名は敬台院殿妙法日詔大姉。
生涯
脚注^ a b 『幕府祚胤伝』では慶長17年(1612年)生まれ、元和2年(1616年)婚姻とあるが、それでは息子である忠英よりも年下になってしまうため誤記と思われる。なお、『徳川実紀』元和六年二月二十六日条では、嫁いだ時期を慶長5年(1600年)正月としており、相違は無い。
参考文献
『阿波の女たち』(徳島市立図書館、1987年)
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