敦賀港
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敦賀港
天筒山から望む敦賀港と三内山(2016年11月)
所在地
日本
所在地福井県敦賀市
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分 東経136度3分 / 北緯35.650度 東経136.050度 / 35.650; 136.050座標: 北緯35度39分 東経136度3分 / 北緯35.650度 東経136.050度 / 35.650; 136.050
詳細
開港1899年(明治32年)
管理者福井県嶺南振興局敦賀港湾事務所
種類重要港湾特定港
泊地面積1,893,565m2
係留施設数18
埠頭数15(岸壁数)
桟橋数3
主要輸出品再利用資材及び紡績半製品染料
主要輸入品石炭非金属鉱物化学薬品
主要貿易相手国輸出:韓国ロシア
輸入:オーストラリアインドネシア中国
統計
発着数2,240隻
貨物取扱量141,663t(2009年)
コンテナ数28,228TEU(2012年)
旅客数82,639人(2009年)
海陸倉庫入庫量13,283t(2009年)
貯木場入量20,475t(2009年)
曳船接岸回数189回(2009年)
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敦賀港(つるがこう)は、福井県敦賀市敦賀湾に位置する港湾である。港湾管理者は福井県港湾法上の重要港湾港則法上の特定港に指定されている。

開港当初からの本港地区(ほんこうちく)と敦賀市鞠山(まりやま)地区に埋め立てで整備された新港地区(しんこうちく)に分けられる[1]
歴史

三方を山に囲まれた天然の良港であり、古代から栄え渤海使のために松原客館が置かれていた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}鎌倉時代にはやや衰退したと考えられるが、戦国時代には朝倉氏の保護を受けて再興された。さらに朝倉氏を破った織田信長やその事実上の後継者である豊臣秀吉らによって日本全国が平定された安土桃山時代には、全国的に海運が盛んになったことから発展し、ここを拠点とする豪商も生まれた[要出典]。江戸時代初期には北陸地方などからの米等を運んできた船が多く入港したが、中期には西廻り航路の開発により一時的に停滞する。しかし、に代わって、関西地方や琉球王国向けの北海道ニシン昆布などが主要な物産として活気をもたらした。幕末の1858年安政年間)には大野藩所有の西洋式帆船大野丸」が母港とし、1882年明治15年)の鉄道開通は港に更なる繁栄をもたらし、1892年(明治25年)には北前船の船主であった大和田荘七によって大和田銀行が創立された。1912年の敦賀港

しかし、鉄道建設が延伸されると港は大打撃を受け、海外貿易に活路を見出すことになる。1899年(明治32年)7月13日開港場に指定され[2][3]、現在の敦賀港として開港した。当時は年間の輸出入額が一定の金額に満たないと閉港されるという条件付きの開港で[2]、これを避けるために大和田荘七など地元有志が「外国貿易協会汽船会社」を設立し外国との貿易に力を入れた[4]1902年(明治35年)にはロシア帝国ウラジオストクとの間に定期船が開設され[注 1][6]、同年の輸出額は51,000円で、前年の1645倍(前年は31円)に急増した[7]1907年(明治40年)に第一種重要港湾に指定され[8]、敦賀郵便局が外国郵便交換局に指定されたことから日本からの国際郵便の大半が敦賀港を経由することになった。明治後期にはロシア領事館が開設され露義勇艦隊敦賀支店長が領事業務を兼務し、大正末にはソビエト領事館が新たに設置さて専任領事のキセリョフが赴任している[9]1912年(明治45年)にはウラジオストク航路に接続する国際列車が新橋駅1914年からは東京駅)と金ヶ崎駅(1919年敦賀港駅と改称)との間に走りだした(→ボート・トレイン連絡運輸の項目も参照)。1916年大正5年)の統計では、貿易総額は5600万円で、日本国内第5位であった[10]。そのうちの約96%に相当する5400万円はロシアとの貿易によるものである[10]1918年(大正7年)にはロシアの作曲家プロコフィエフが米への亡命途上、敦賀港より日本に上陸した。同年、清津朝鮮)との間に定期航路が開設されている[10]1960年前後の敦賀港

1940年昭和15年)から1941年(昭和16年)までの間、リトアニア領事代理杉原千畝の発給した「命のビザ」によって、約6000人のユダヤ人難民がシベリア鉄道からウラジオストク経由で敦賀へ上陸した[11][12]。敦賀港はユダヤ人難民以外の難民を受け入れてきたことから「人道の港」と呼ばれた[13]2013年平成25年)12月にはかつて桟橋だった地点に「1920年ポーランド孤児 1940年ユダヤ難民 上陸地点」と記した銘板が埋め込まれた[11]

1941年(昭和16年)11月15日、敦賀港 - 清津港を結んでいた連絡船「気比丸」が朝鮮半島沖合で触雷して沈没。死者・行方不明者165人を出した[14]

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)には繰り返しアメリカ軍の空襲にさらされた。敦賀市街地は壊滅し、敦賀港と周辺には機雷が撒かれた。戦後も影響が残って港湾機能は回復せず、機雷除去の安全宣言が出されたのは1952年(昭和27年)になった[15]。しばらくは石炭の中継港の役割を担うにとどまっていたが、1951年(昭和26年)に港湾法による重要港湾に指定され[16]1957年(昭和32年)には旧ソ連との貿易も復活した。1970年(昭和45年)8月4日に北海道航路が開設されて大型フェリー「すずらん丸」が就航し[17][18][19]1973年(昭和48年)に川崎松栄岸壁(現コンテナバース)が完成した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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