散華_(高橋和巳)
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散華
鳴門海峡渦潮
作者高橋和巳
日本
言語日本語
ジャンル短編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出『文藝1963年8月
出版元河出書房新社
刊本情報
収録『散華』
出版元河出書房新社
出版年月日1967年7月5日
装幀片岡真太郎
作品ページ数72
総ページ数290
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『散華』(さんげ)は、高橋和巳短編小説1963年(昭和38年)8月、『文藝』に発表され、1967年(昭和42年)7月河出書房より刊行された短編集『散華』に収録された[1][2]。同短編集の文庫版は、新潮文庫より刊行されていた。

大東亜戦争中に死の哲学「散華の思想」を唱え、今は孤島で隠棲する元右翼思想家の老人と、島の買収交渉のために老人を訪ねた「回天特攻隊員の生き残りである電力会社社員との葛藤と親和を通し、戦時中の「散華の思想」を捉え直した作品である[3][4]1964年(昭和39年)7月には、TBS系列の「近鉄金曜劇場」にて、生田直親脚色・大山勝美演出で単発テレビドラマ化された[5][2]
あらすじ

電力会社の補償課長補佐である大家次郎は、四国本州とを結ぶ高圧海上架線建設のための、用地買収に奔走していた[6]。そして買収交渉のため、淡路島と四国の間にある鳴門海峡の外れにある孤島へと、一人で赴くこととなった[7][6]

その島には、かつて右翼思想家として名を馳せた中津清人という老人が、ひっそりと隠遁生活を送っていた。中津には戦時中、特攻攻撃の精神的支柱となる、「個の自覚的消滅による民族の再生」を説く『散華の精神』という書物を著して、多くの青年の「散華」を鼓舞したという過去があった。自らの思想が敗戦によって無価値となってのち、中津は一切の社会的関係を絶ち、孤島に隠棲していたのだった[8]

かつて戦争末期、人間魚雷回天」特攻隊員として死を覚悟した過去を持つ大家は、中津に興味を抱くようになる。そして、友人の研究者から中津の著書『人間維新論』を借りて読み、意外な力をその理論に感じ取った[9]。中津に対して愛憎半ばする感情を感じるようになった大家は、用地買収の用件をなかなか切り出せずにいた[10]。そして中津のほうも、大家の度重なる来島を、右翼団体の使者、あるいは自身に興味を抱いてのことと思い、奇妙な好意を示すようになる[11]

しかしある日、遂に大家から本来の目的を聞き、中津は激怒した。大家が特攻隊の生き残りであることを聞いていた中津は、その真摯な指弾に耐えようと覚悟していたが、大家の目的が世俗的な目的であったことを知り、裏切られたと感じたのだった[10]。立ち退きを勧告された中津は、日本刀を持って大家の前に立ちはだかる。小屋の隅に追い詰められた大家は激怒し、中津に鉄瓶を投げつけた[12]。中津は顔の半分を熱湯で爛れさせ、号泣しながら畑の中を転げ回る。日本刀は水槽の中に浸かっており、初めから大家を斬る気などはなかったのだった[13]。この一件後、大家は総務部へ転じ、この問題からは離れる[9]

冬になって高圧線の計画が具体化し、測量班が鳴門海峡の孤島に上陸したとき、崩壊寸前の小屋から、半ばミイラ化した老人の死体が発見される[14]。死体の腹部には、軽く刀剣が突き刺さっていた。新聞はセンセーショナルにこの出来事を書き立て、残されていた老人の日記を紙面に掲載した[13]

この際、自分のところへ取材へやってきた友人の新聞記者に対し、大家は何も知らないと言い通す。もう島の問題から離れた大家にとって、「老人が何を考え、何を苦しんだとしても、それはもう大家には関係のないことだった」のだった[15]。新聞が、筆者は失語症だったのだろうと決めつけた[16]、中津の日記の最後の1週間の記述は、次のようなものだった[17][18][13]

×月×日 晴天、海あおし

×月×日 今日もまた晴天、海あおし

×月×日 今日もまた晴天、海あおし

×月×日 晴、海蒼し、風吹く

×月×日 晴、海蒼し

×月×日 ああ、海よ

×月×日 海
登場人物

大家 次郎(おおや じろう) - 電力会社の辣腕の補償課員。現実生活を優先し、科学思想を信頼する、今日的なリベラリスト
[19]。敗戦直前に奄美基地の回天特攻隊員となり、敗戦のために出撃せず生き残った過去を持つ[20]。戦後、日本の敗北が明らかとなってから満洲国へ押し寄せたソビエト連邦への憤りからソ連について研究するも、そのために却って左傾した[21]。現在では戦後の平和と秩序の中で怒りを風化させ、企業内エリートとなっている[22]

中津 清人(なかつ きよと) - 淡路島近くの孤島で1匹の三毛猫と暮らす、人嫌いの老人。若い頃は社会主義的傾向を持つ支那浪人だったが、戦時中は汎アジア主義に転じ、武士道の伝統を引く死の哲学「散華の精神」を説くようになった[23]。敗戦後は日本の「亡国」と共に自らも滅びたとして、社会との繋がりを絶ち、孤島に隠棲した[4]。島では何かを祈願しつつ、多数の仏像を彫っている[24]。モデルは北一輝ではないかと推測されている[25][4]

小林 利男(こばやし としお) - 大家の友人の研究者[26]予科練帰りの過去を持ち[27]、中津の思想を説明しつつ、大家自身の矛盾を問い詰める[28]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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