この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年8月)
スイス・アーデルボーデンの散居村上空から見た富山県砺波平野の散居村高台から望む砺波平野の散居村カイニョに囲まれた散居村の家々アズマダチの伝統家屋
散居村(さんきょそん)は、広大な耕地の中に民家(孤立荘宅)が散らばって点在する集落形態。一般的には散村(さんそん)と呼ばれる。集村と対比して語られることが多く、一般には集村が普遍的で散村は比較的少ないと考えられているが[1]、実際には世界的に広く見られる集落形態である。
日本においては島根県の出雲平野、香川県の讃岐平野、静岡県の大井川扇状地
、長崎県の壱岐島、北海道の十勝平野、岩手県の胆沢扇状地、秋田県の横手盆地北部(仙北平野)、富山県の砺波平野や黒部川扇状地などがその典型例である。なかでも日本国内最大とされる砺波平野では現在、およそ220平方キロメートルに7,000戸程度が散在している[2]。世界ではイギリスの大半、フランス西部からライン川下流域、イタリアのポー川流域、スカンジナビア半島、バルカン半島北西部、エジプト、台湾北部、中国・東北区の北部などで民族にかかわりなく認められる[1][3]。 自然条件、あるいは土地所有や相続制度など民族的伝統によって古くから成立したものもあるが、近代の開拓地で形成されたものが多い。国内では北海道の屯田兵村やいくつかの局地的なものを除くと、それらの起源は必ずしも明らかではない。砺波平野の散村は中世まで遡りうるが、一般的には治安が安定し、為政者にとっても農民にとっても生産性向上への関心が高まる近世期以降に形成または拡大したと考えられる。 この景観が成立したのは、16世紀末から17世紀にかけてであると考えられている。砺波平野を流れる庄川は江戸時代以前にはしばしば氾濫したため、この地域に住みついた人々は平野の中でも若干周囲より高い部分を選んで家屋を建て、周囲を水田とした[4]。このような住居と水田の配置は農業者にとっては便利であったため、前田家による田地割政策下でもこの地域の農民たちは引地、替田を行って自宅周辺に耕作地を集めようとした[5]。 家屋が1か所に集まって集落を形成するということが無かったため、冬にはそれぞれの家屋が厳しい風雪に直接晒されることとなり、家屋の周囲にカイニョと呼ばれる屋敷森を形成してこれに対処するようになった。一般的には防風効果もあり、燃料となり、建築用材になる杉が多い。栗 ・柿・梅など実ができる樹木も植え、女の子が生まれると桐の木を植え、嫁入りに備えた。「高 (土地)を売ってもカイニョは売るな」「塩なめてもカイニョを守れ」[6]と大切にされた。 なお、この地域の伝統的な家屋には「アズマダチ」(切妻造)や「マエナガレ」(平入り)がある。研究者として始めに注目したのは、京都帝国大学の地質学者の小川琢治である。 家々が点在する集落形態を一般的には「散村」という。地理学の分野や社会科の教科書などでは「散村」の用語が使われ、国内で広く浸透している。一方、砺波平野が所在する富山県内では「散居村」の用語が定着している。富山県内において散村という用語は、教育現場や地理学界以外ではほとんど目にすることがなく、散村が山村と同音で混同するといった理由などで行政やマスコミでは「散居村」が使われ、一般化している。それぞれの用語の歴史について見てみると、「散村」は1909年に京都帝国大学の小川琢治教授が調査したのがはじまりである。「散居村」という用語について確認できる最も古い資料は1952年の『アサヒグラフ』の「散居村 ―富山県砺波平野にて―」というグラビアページである。この頃すでに「散居村」を使用していたことを示す資料ではあるが、「散居村」という用語が富山県内に広く普及していくのは1980年代(昭和50年代後半)以降である。
成立の要因
砺波平野の散居村
「散居村」と「散村」
脚注[脚注の使い方]^ a b 木内ほか、1967、143ページ
Size:13 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef