敢國神社
参道と拝殿
所在地三重県伊賀市一之宮877
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度47分14.52秒 東経136度09分50.18秒 / 北緯34.7873667度 東経136.1639389度 / 34.7873667; 136.1639389
敢國神社(あえくにじんじゃ)は、三重県伊賀市一之宮にある神社。式内社(大社)、伊賀国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 祭神は次の3柱[1]。 『延喜式』神名帳の記載に見えるように元々の祭神は1座で、国史に「敢国津神」とあるように「敢(あえ:旧阿拝郡一帯)の国津神」が本来の祭神であったと見られている[2]。この神の本質としては、一帯に勢力を持った阿閇氏(敢氏/阿閉氏)の氏神とも、円錐形をなす南宮山(伊賀小富士)[注 1]が神奈備として祀られたものとも推測される[3]。 中世に入ると、この神に人格神として金山比当スまたは金山比古命をあてる説と、少彦名命にあてる説とが生じた[2]。金山比当スをあてる説は、南宮山に対する信仰に基づくと見られ、古くは室町時代末期の『大日本国一宮記』や『延喜式神名帳頭註』に記載が見える。美濃国一宮の南宮大社(岐阜県不破郡垂井町)との関連伝承を記す文献もあるが、その傍証は欠いており詳らかではない[2]。一方、少彦名命は開拓神として知られる神で、『梁塵秘抄』に「伊賀国にはおさなきちごの宮」と見えることから、平安時代末期には少彦名命説が確立したと見られている[2]。以後、室町時代末期から江戸時代の間は、金山比当ス・少彦名命の2神説、またはこれらに甲賀三郎を加える3神説が定着していた[2][3]。 江戸時代の正徳3年(1713年)になると、度会延経が『神名帳考証』において大彦命を祭神とする説を唱えた[2]。この説は、『日本書紀』孝元天皇紀や『新撰姓氏録』阿閇臣条に大彦命が阿閇氏祖として記されることに基づく[2]。後にこの大彦命説が取り入れられて甲賀三郎は廃され、明治以降は大彦命・少彦名命・金山比当スの3神説が定着し現在に至っている[2]。 社伝[1]では、斉明天皇4年(658年)の創建になるとする。
祭神
主祭神
大彦命(おおひこのみこと)第8代孝元天皇第一皇子。『日本書紀』によると、四道将軍の1人として北陸道へ派遣されたという。
配神
少彦名命(すくなひこなのみこと) - 右座。
金山比当ス(かなやまひめのみこと) - 左座。
祭神について
歴史
創建
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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