教皇国家
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教皇領
Stato Pontificio
Status Pontificius

752年 - 1870年


国旗)(国章

1789年の教皇領

公用語ラテン語
イタリア語
首都ローマ
ローマ教皇
752年 - 752年ステファヌス2世(選出)
1846年 - 1878年ピウス9世

変遷
成立752年
ローマ共和国1798年2月15日
バチカンの囚人
(en:Prisoner in the Vatican)1870年
ラテラノ条約
(→バチカン市国1929年2月11日

通貨en:Papal States scudo(-1866年)
en:Papal States lira(1866年-1870年)
現在 バチカン
イタリア
1870年の教皇領の地図

教皇領(きょうこうりょう、ラテン語:Status Pontificius, イタリア語:Stato Pontificio)は、ローマ教皇あるいはローマ教皇庁の支配していた領土である。歴史的には国家としての体裁も持ったため、教皇国、教皇国家とも呼ばれる。
目次

1 歴史

1.1 前史

1.1.1 教皇権の成立

1.1.2 グレゴリウス1世による司教座支配


1.2 成立

1.2.1 ピピンの寄進

1.2.2 カール大帝の寄進とフランク・ローマ皇帝


1.3 神聖ローマ帝国の誕生

1.4 教皇派と皇帝派

1.5 アヴィニョン捕囚と教会大分裂

1.6 イタリア戦争

1.7 三十年戦争

1.8 パリ外国宣教会創設とアジア布教

1.9 フランス革命およびナポレオン時代

1.10 国民国家イタリアの勃興と教皇領の終焉


2 影響

3 脚注

3.1 注釈

3.2 出典


4 参考文献

5 関連項目

歴史
前史 教皇領成立前のイタリア半島。黄色は東ローマ帝国領、ピンクは東ローマのラヴェンナ総督府領、オレンジはランゴバルド人の支配地域
教皇権の成立

教皇国家あるいは教皇領と呼ばれる教皇の世俗支配の形成過程を概観する。ローマ司教の優位性はイエスの言葉に求められた。イエスはペテロに向かって、「汝はペテロである。私はこの岩(ペテロ)の上に私の教会を建てよう」と言ったという。ペテロが最初のローマ司教であったことは、ローマ司教こそが教会の本体であるということを指していると受け取ることもできる。ペテロはイエスから「天国の鍵」を預けられたとされた。「『わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』」[1]

教権の上昇に最も貢献したのはレオ1世で、455年ヴァンダル族がローマを攻撃したときに、その王ゲイセリクスと交渉してローマの略奪を防いだ。このころから「教皇(パパ)」という称号はローマ司教だけに特別に認められるものであるという観念がヨーロッパ世界に定着していった。

4世紀の教皇シリキウステサロニカ主教を教皇代理に任命して、ダキアマケドニアへの指導権を獲得し、ボニファティウス1世は改めてこれを皇帝ホノリウスに認めさせている。
グレゴリウス1世による司教座支配

5世紀前半には教皇の権威はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及んだ[2]。ところが東ローマ帝国に結びついたことで、東方の神学論争が西方に持ち込まれ、神学論争に介入する皇帝の姿勢は不満の種となり、北イタリアの大主教が教皇の影響から離脱する動きを示し、ガリアイベリア半島でも分離傾向が見られた。イタリア半島にランゴバルド族が侵入すると、グレゴリウス1世フランク王国と友好的な関係を結んだ。分離傾向を示す西方諸地域の司教たちに対して、グレゴリウス1世は教皇がそれらの上位にあることを繰り返し強調した。司教は当時すでに有力な世俗領主となりつつあり上層階級には司教座を熱望する動きがあった[3][4]。その結果、明らかにふさわしくない候補者や若すぎる候補者が司教選挙に立つようになった[3]

グレゴリウス1世は、ナポリ司教を解任し、メリタ司教を降格し、タレントゥムカリャリサロナの高位聖職者を批判し、司教座に対する支配を徹底した[5]ブルンヒルドによるテウデリク2世・テウデベルト2世の摂政期に起こった数々のガリア教会の醜聞に、グレゴリウスは諫言を書き送ったが、実を結ぶことはなかった[6]。グレゴリウス1世はビザンツ皇帝であるマウリキウス帝やフォカス帝に宛てた書簡では、自らへりくだって敬意を表しているが、メロヴィング朝の君主へ宛てた手紙では、彼らを厳しく叱責し高圧的な態度を取っている[7]。この当時のガリア教会は完全にメロヴィング朝の「領邦教会」と化していたからである[8]

ビザンツ帝国に対しては一定程度の影響力を行使したが、従来教皇の指導権が及んでいたイリュリクムでは教義に関しても無力であった[6]


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