教皇ヨハネスの代数は、厳密な数字順になっていない。ヨハネス(ヨハネ)を名乗った正統な教皇の数は21人であるが、最後にこの名前を名乗った教皇は「ヨハネ23世」である。このずれは、中世に代数の数え誤りを2回していたことによるものである。1回目は対立教皇ヨハネス16世の代数を除かずに、次の教皇ヨハネスが17世を名乗ったことである。2回目は、『教皇の書』の記載の誤読によって14世が2人いると勘違いされ、それを正すために20世が飛ばされたことである。 #は、正統な教皇の代数(本来名乗るべきだった代数)を示す。 現代の序数在位出生名備考# 11世紀の歴史家は、ヨハネスという教皇が対立教皇ボニファティウス7世と正統な教皇ヨハネス15世の間に存在したと信じていた。これは、教皇についての伝記『教皇の書』(Liber Pontificalis)におけるヨハネス14世についての記述の誤読に起因するものである。『教皇の書』では、ヨハネス14世の任期について、教皇として在位していた8か月と、ボニファティウス7世に幽閉されていた4か月間とが分けられ、次のように書かれていた。Iohannes m. VIII (ヨハネス、8か月)Iohannes m. IV (ヨハネス、4か月) 11世紀に入って、この記述は2人の異なる教皇ヨハネスを指しているものと誤読されるようになった。2人のヨハネスを区別するために、2人目の「ヨハネス14世」については"Iohannes XIV. bis"(ヨハネス14世その2)と呼ばれるようになり、ヨハネス14世の死後にボニファティウス7世と対立した枢機卿の助祭ヨハネスと混同された。ヨハネス15世からヨハネス19世までは「ヨハネス14世その2」の存在を軽視していたとして、1276年に教皇に選出されたペドロ・ジュリアォンは「ヨハネス21世」を名乗ることでこの「誤り」を「修正」した。 19世紀になって、「ヨハネス14世」に関する誤りが発見され、現在では歴代のローマ教皇については在位中に使用していた番号で記載されている。よって、在位中に「ヨハネス20世」を名乗った教皇は存在しない。ただし、一部の資料で、15世から19世について16世から20世と書いているものがあるため、「15世(16世)」のような併記をすることがある。逆に、ヨハネス21世に20世と併記しているものもある。 何人かは、ヨハネスという教皇にまつわる数え方の混乱を、女教皇ヨハンナが実在した「証拠」として使っている。 ジェームズ・ブランチ・カベル
ヨハネスの一覧
1世から14世までの序数に議論の余地はない。
1世 • 2世 • 3世 • 4世 • 5世 • 6世 • 7世 • 対立-8世 • 8世 • 9世 • 10世 • 11世 • 12世 • 13世
ヨハネス14世983?984Pietro Canepanova14
ヨハネス14世その2存在しない中世の歴史家が教皇の書におけるヨハネス14世についての記述を誤読した。?
ヨハネス15世985?996John「ヨハネス14世その2」が存在したと考えられたことにより、ヨハネス15世 (16世) と併記された[1]。15
対立教皇ヨハネス16世997?998Johannes Philagathos or Piligato or Filagattoヨハネス16世 (17世) と併記された[2]。グレゴリウス5世に対抗して選ばれ、対立教皇とされているが、16世という序数は残された。?
ヨハネス17世1003Siccoヨハネス17世 (18世) と併記された[3]。16
ヨハネス18世1004?1009Fasaniusヨハネス18世 (19世) と併記された[4]。17
ヨハネス19世1024?1032Romanusヨハネス19世 (20世) と併記された[5]。18
ヨハネス20世存在しないヨハネス21世により省略された。?
ヨハネス21世1276?1277Pedro Juliao
romanised as Petrus Hispanusヨハネス21世 (20世) と併記された[6]。15世から19世までを16世から20世とすべきと考え21世とした。19
ヨハネス22世1316?1334Jacques Dueze20
対立教皇ヨハネス23世1410?1415Baldassare Cossa20世紀半ばまで正統な教皇として『教皇庁年鑑』(Annuario Pontificio)に記載されていた[7]。?
ヨハネス23世1958?1963Angelo Giuseppe Roncalli23世を名乗ったことによりBaldassare Cossaの対立教皇としての立場が確認された。21
ヨハネス20世