教派神道連合会
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教派神道(きょうはしんとう)とは、狭義には、江戸時代までの伊勢神宮出雲大社浅間神社富士山)の組織や、江戸時代から明治時代に起こった新宗教も含め、明治時代に神道を宣教する教派として段階的に公認されていった総計14の神道系教団のこと。宗派神道(しゅうはしんとう)とも呼ばれる。

途中で1教派(伊勢神宮系の「神宮教」)が離脱し、(戦前において)最終的に出揃ったのは13教派だったので、かつては神道十三派(しんとうじゅうさんぱ)とも表現された。

広義には、戦後に「教派神道連合会」に新たに加入した「大本」も含む。(戦後に「大本」が「教派神道連合会」に新たに加入し、逆に「天理教」と「神道大成教」が離脱したため、現在「教派神道連合会」所属の教派は、12教派となっている。)

神社神道と対比され、神社神道が(明治以降、伊勢神宮の下に束ねられることになる)日本各地の様々な神社・慣習的信仰の集合体であるのに対して、教派神道は(江戸時代後期の、根源的・包括的信仰を模索する国学復古神道の系譜に影響を受けた)大教院の理念を引き継ぎ、綜合的な性格が強いため、中心的機関・教団である神道本局神道大教)をはじめとして、祭神には原初神である天之御中主神から始まり、全ての神々(神祇)を祭るという姿勢の教団が多い。

黒住教神習教神理教禊教金光教大本などの一部教団は、教祖自身が、国学復古神道(あるいは儒家神道)の系譜から、直接的に思想的影響を受けている。
概要

明治新政府の宗教行政では、神仏合同の大教宣布教導職を成すため、1868年(明治元年)頃、神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こり、同年、祭政一致の制度を復活する。その宣教機関として1872年(明治5年)に大教院が設置されるが、1875年(明治8年)に解散。その代わりに神道側は同年、神道事務局を設け、そこに元来ばらばらに存在した民衆信仰的な宗教を所属させ、信者数など一定の条件を満たした教派を「独立教派」として公認した。これが教派神道の始まりである。

1876年(明治9年)の神道黒住派 (黒住教)・神道修成派に始まり、1886年(明治19年)には神道事務局が自ら「神道本局」(後に「神道大教」に改名)という一教派へと組織改編したり、1899年(明治32年)には「神宮教」が「神宮奉斎会[1]」となって教派から離脱したりしつつ、1908年(明治41年)の天理教まで、計13派(離脱した「神宮教」も含めれば計14派)が出揃った。

教派初代・教祖独立公認年月
神道黒住派黒住教黒住宗忠1876年(明治9年)10月
神道修成派新田邦光
神道神宮派神宮教
(→ 神宮奉斎会 1899年(明治32年))田中頼庸1882年(明治15年)5月
神道大社派神道大社教出雲大社教千家尊福
神道扶桑派(扶桑教宍野半
神道実行派(実行教)柴田花守
神道大成派(神道大成教)平山省斎
神道神習派(神習教
(→ 1976年(昭和51年)連合会退会)芳村正秉
神道御嶽派(御嶽教)下山応助1882年(明治15年)9月
神道本局神道大教稲葉正邦1886年(明治19年)1月
神理教佐野経彦1894年(明治27年)10月
禊教井上正鐵
金光教金光大神1900年(明治33年)6月
天理教
(→ 1970年(昭和45年)連合会退会)中山みき1908年(明治41年)11月

1912年(明治45年)には「連合会」が組織され、戦後に至るまで13派体制が維持されたため、神道十三派と呼ばれるようになった(なお、当時の仏教の認可も13宗(十三宗五十六派)である)。

戦後には、連合会に大本も入会したが、天理教・神道大成教が退会したため、連合会所属は12派になっている。

教派初代・教祖連合会加入年月
大本出口なお
出口王仁三郎1956年(昭和31年)

文化庁の分類によれば、大きく復古神道系、山岳信仰系、禊系、儒教系、純教祖系に分類される[2]復古神道系は、神道大教や神理教、出雲大社に端を置く出雲大社教がある。山岳信仰系には富士信仰の實行教、?桑教、御岳信仰の御嶽教がある。儒教系とされるのは神道大成教と神道修成派。禊系は禊教と神習教である。純教祖系、教祖の体験と教えに比重の大きい教団は、黒住教、天理教、金光教、大本である。天理教は今では文化庁の分類上も教派神道系ではなく諸教に分類される[2]
教派神道の制度の成立

教派神道のきっかけは、1868年(明治元年)の神祇官の再興と神仏判然令を始まりとする神仏分離によって、国家による祭政一致が形成され、神道を宣布するための宣教使という概念が残ったという状況に基本形が見られる[3]。従来より存在した神社や神道系の講社、民間信仰の教会が結集した神道事務局が用意されると、そこから、一定の条件を満たした各教派が独立する。

また、1870年(明治3年)に大教宣布の詔が発布され、1876年(明治9年)には神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成に力を注いだ明治新政府(太政官)であったが、政教分離信教の自由論が世の中に広まり、教導職が終盤を迎え、それに伴い神道事務局の中では、旧典練習所をより発展させた機関を設置する必要があると考えが強まっていった。これにより、明治政府は、日本固有の思想の探究を組織化するために、神道事務局から独立して東京府皇典講究所を設置した。後に國學院大學へ継承される。
祭政一致の形成

1868年(明治元年)前後には、幾度かの太政官布告・太政官達によって、神道を国家の宗祀と位置付け国家によって中央集権化し、神職の世襲制を廃止することで、白川家吉田家による神職管轄が終焉していく[3]。神社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニテ一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ勿論ノ事ニ候処中古以来大道ノ陵夷ニ随ヒ神官家ノ輩中ニハ神世相伝由緒ノ向モ有之候ヘ共多クハ一時補任ノ社職其儘沿襲致シ或ハ領家地頭世変ニ因リ終ニ一社ノ執務致シ居リ其余村邑小祠ノ社家等ニ至ル迄総テ世襲卜相成社入ヲ以テ家禄卜為シ一己ノ私有卜相心得候儀天下一般ノ積習ニテ神官ハ自然士民ノ別種卜相成祭政一致ノ御政体ニ相悖リ其弊害不尠候ニ付今般御改正被為在伊勢両宮世襲ノ神官ヲ始メ天下大小ノ神官社家ニ至ル迄精撰補任可致旨被仰出候事 ? 明治四年太政官布告第二三四号

1868年(明治元年)明治維新により神祇官が復活し、神道による国民教化が行われる[4]。また太政官達である神仏判然令を始まりとする神仏分離も同時に進行する[3]。1870年(明治3年)大教宣布の詔により、大教という概念が提起され、神道を宣教するために宣教使という制度が発足する[3]。1872年(明治5年)、宣教使は廃止される[5]
教部省と教導職、大教院

1872年(明治5年)3月教部省を設け、4月には神官と僧侶に教導職を任じる[4]。教導職は14階級あり、三条教則を宣布した[4]。教部省は1880年に廃止されることになる[6]


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